人生観

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復活ノート

「人生観」
先日、謝罪会見を開いた「作曲家」は、相変わらず「恥の上塗り」ならぬ「嘘の上塗り」のような弁明に終始していましたが、私が一つだけそうだろうなと思ったのは、「あまり聞こえていないのに感動するふりをするのは辛かった」と言っていたことです。
しかし、それさえ、聞こえないのは嘘で、「聞こえていたが、感動しなかったのに感動するふりをするのは辛かった」のじゃないのかとさえ思ってしまいます(一度「嘘つき」のレッテルを貼られると、信用されるのはいかに難事業かよくわかります)。
それと並行して報道されているのは、STAP細胞の研究です。
こちらも、捏造とか盗作とか言われはじめています。割烹着姿の笑顔のリケジョに何があったのでしょうか。
論文の共同執筆者が言っているように「単純ミス」で、「やはり医学を愚弄している」と言われないように心から祈ります。
二人を一括りにするのは申しわけないのですが(一人は詐欺師で、一人は女性の病気を治したいという夢をもっている研究者ですから。ただ論文の疑問点は認めていますが)、どちらも、いや、だれでも、自分の人生観に基づいて、行動をするわけです。
もちろん、人生観は、何らかの原因で変わりますので、時間が立つと、一人の人間が正反対のことをすることもよくあります。
ただ、ビジネスの場合は、一度信頼を損ねると、信頼を取りもどすのは時間がかかります。取引停止を免れても、保証人の提出や前金となるでしょう。だから、意欲があっても復活をあきらめざるをえなくなるのです。
私も人のことは言われませんが、「魔が差す」のは、心のなかで、助かりたい、楽になりたいというような思いがあふれているときのように思います(そういう意味では、「魔が差す」というのは、「一瞬」のことではなく、日ごろの思いの表れというべきかもしれません)。
だから、ビジネスを始めるときも、ピンチのときも、成長しているときも、自分の人生観をしっかりもっていないと、もっと底にあるものが出てきて、「魔が差した」と後悔する決定をしてしまうような気がするのです。
もちろん、人生観は、ビジネスだけでなく、生き方、人間や社会の見方の土台になります。
しかし、あの「作曲家」は、広島の被爆者や東日本の罹災者に感銘を与えたじゃないかという意見があるかもしれませんが、自分が作っていないという一点で、他人以上に自分を裏切っているのです。そこには人生観などありません。
体は、何もしなくても、ある程度のエネルギーがいりますが、それは私たちの人生においても同じことです。
日ごろは小川のせせらぎのようなエネルギーの流れでも、人生を決めるときには、それが結婚でも(さらに離婚でも)、転職でも、起業でも、強いエネルギーがいります。
強いエネルギーは揺るぎのない人生観からしか生まれないのです。