イメージ(1)

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「イメージ」(1)
「人は、見かけとちがう」ゆうのは、学校の先生がゆうたんやろか。
チョークの粉だらけの背広に、運動靴をはいていても、センスがないと思うなよとゆうことやったんかいな。
もっとも、50年間には、「センス」てな言葉はなかったな。毎日服を替えてくる男の教師を、他の教師や親が、「伊達をこく」から、「ダテガキ」ゆう「あだな」をつけていた(西垣ゆう名前やったから)。子供なんか、普段着2つぐらいと「よそゆき」一つしかなかった。
どこの親も、服に金をかける余裕もなかったし、そんなことを考えんと、「中身が大事」ゆうようなことやったんやろ。
その頃は、腋毛を剃る「身だしなみ」もなかったので、女の先生は、下から見上げたら、ボーボーやった(中学2年のとき、バレーボールの練習のとき、好きな女の子の脇が見えたとき、頭がくらくらしたことが忘れられへん。ぼくの「ヰタ・セクスアリス」の始まりやとどこかでゆうた)。
ところで、「見かけとちがう」と聞けば、鶴瓶の話を思いだす。
師匠の6代目(松鶴)が、若いとき、ミナミの宗右衛門近くの相生橋(今はたこ焼き屋があるけど)で、酔うて寝ていたら、女の乞食に、「こんなとこに寝ていたら毒やで。金なかったら貸したげるから、車拾うて帰り」ゆうて、金を渡されたけど、まだ返してへんとか、また、別の女乞食が、夕方になったら、運転手が迎えにきて帰るのを見たとかゆうとった。
どこまでほんまか知らんけど、どんな話でも(おとぎ話でも)、おもろいのは、バリエーションがいっぱい出てくる。
それやったら、パリッとした服装をしていても、その日の生活の困っているもんもいるかもしれんし、賢そうな顔をしていて、何にも知らんのがいるかも知れんな。
最近、「人は見た目が9割」とかゆう本が売れているらしい。
人は、しゃべる内容より、しゃべり方とか表情とかの「見た目」で、相手を理解するから、それに気をつけゆうことらしい(抜粋しか読んでへんけど、ええ加減な内容らしい)。
内容はともかく、確かに、ぼくは、「最初の見た目」で、まず好き嫌いを決めているような気がする(逆に、そうされてへんかと緊張する)。
つまり、まず相手のイメージを持つのやな。絵を描くとき、まず輪郭を描くようなもんやろか。
「イメージ」を辞書で調べらたら、「心の中に思い浮べる像」と書いてある。つまり、「ほんまもん」とちがうのや。
事件を起こすと、テレビが飛んできて、近所の話を聞く。誰かが、「いつもにこにこして挨拶をしていたで。あんなことするような人やない」とゆう「一方」(この言葉は、テレビのキーワードやな)、「すぐ逆切れするところがあった」ゆう話も出てくる。
犯人やなくても、ぼくも君も、ぎょうさんイメージを持っているのとちがうか?

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