田中君をさがして(29)

      2016/04/05

かった。友達は、みんな40年前に戻ることができてすばらしいと言っていたのことを。だから、カンパして、10万絵集まりましたので、ゆっくりしていらっしゃい
田中君が、叔父さんに出した手紙が同封されていた。其れは、田中君のお父さんがなくなったときのものと、ブラジルへ行ったときから、送ってきたものだった。すべては出しことができないので、大事なものだけを書こうと思う。

「叔父さん、元気ですか。
先日は、父の葬儀に際しまして、暖かい心配りをしていただき、誠にありがとうございました。
父も、叔父さんに、どんなに会いたかったことでしょう。
父は、私たち家族を伴い、大きな夢を持って、ブラジルへ移住致しました。
夢をつかむためには、思い切りぶつかること、そうしたら、壁をい打破れるのだと言うのがあ、父の生き方でした。日本をdるときも、父の思いが、叔父さんたちに迷惑をかけたことは覚えています。市kし、其れが父の生き方でした。
父が、みんなで、ブラジルへ行くことにしたぞと言った日、私は、夢を見ました。その前日に、公会堂で、幻灯を見ました。其れが夢の中に出てきました。
家を出た父親が、久しぶりに帰ってきて、家の中にはいるのためらって、家の横につんである、薪の陰から、家をのぞいているのです。しかも、その父親は、着流しのようなものを着ているのがおかしかったのです。いまどき、そんなものを着て家出するものがいるのかと思いました。大豆ふるいものだったかもしれません。
夢の中では、急にこちらを振り向くと、なんと私の父親でした!
「おい、ブラジルへ行って、人旗揚げようじゃないか。ここを掘ればブラジルへ行くんだ。
其れは時間がかかるから、船だ。世界を実ながら新世界に行こう。
ブラジルは、日本の26倍の大きさだ。」
いtど、ばくちで捕まって、10日後に変えてきましたが、そのとき私は、入ろうかどうしようかうろうろしている父を見たことがありました。その光景にそっくりでした。
お父さん!父はびっくりしたように、気まずそうでした。それから、半年後に、ブラジルに行こうといいました。
本とは、ちょっとまずかったのですが、知り合いが掛け合ってくれました。
其れは、ブラジルで、事業を始めて大きくしていくときも、みんな、そんな父らしいやり方でした。わつぃも、夢をチュかむために奏してきました。そして、全力で生きました。ほんとに生まれ変わったようでした。日本にいるときは、近所の人が、いつも立てをこいて、総領の癖にふわふわしてといわれているのを知っていました。
いつも、白いズボンをはいていました。
冬は、どこから手に入れたのか、皮のジャンバーを着ていました。もっとも、ぼくら兄弟は、なかなか会っているように思って印したが。
ブラジルでは、服装なんか全く気にせずに働きました。夢を持っていたからです。
今まで言わなかったのですが、タバコを取ったと取らなかったことで毛引火に鳴りましたが、父は、一切口答えをせず、殴られても耐えていました。そんなときは、みんなで、青い山脈を歌って、励ましあいました。これも、叔父さんをはじめ、日本にいる親戚の方のお陰だと思います。
私は、収容所の日々を忘れることができません。警察や堅調に言っている間に、兄や弟、と遊んだり、友達と、近くの外人の家に遊びに行きました。知覚の神社では、お宮白の大きなくすのきを見上げて今したくなす言葉を思えたり新した。不安でいたが、気が紛れました。
近くには、洋館がたくさんありました。神戸で、商売をしていた外人が、居留指定や場所らしいです。
そこの大きな杉の木は、田舎の神社の野とよく似ていました。
裏山に上ろうということになって、上りました。園やmの反対側には、田舎があるから見えるかもしれないと言うものがいたからです。しかし、頂上の向こうは、ロッ鉱山になっていて、延々と山が続いているのです。
戸まで送りにきてくれた日のことを忘れません。
父は、大きな財産をつくり、私たち子供を立派にしてくれました。
母が亡くなってから、日増しに弱くなってきたので、心配しておりました。
私も、妻の体が弱いので、事業は、弟二人に任せ、看病に専念することになりました。
妻が全快すれば、二人で、日本に行き、叔父さんたちにお礼を言い、子供のころ、父と遊んだところへ行きたいと考えています。
叔父さん、どうぞ、お元気で待っていてください。
                               田中
                           市

「ブラジルへ行く穂のことを思い出します。汽車の駅までは、親戚のことが会ったので、近所の人は、見送りに来なかった。神戸の週要所では、10日間ほど、いろいろ勉強しました。言葉や習慣などです。
神戸は、サ赤道が多い町でした。そこからは、海が見えました。そのじっと向こうにブラジルがあるとみんな指差していました。
ぼくら子供たちは、坂道になれていないので、変な気分でした。明治時代から貿易関係をしていた外人が住んでいた家を見に行きました。それらは、田舎で見たい絵ではなく、レンガなどで造っていました。

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