隠れ蓑

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復活ノート
「隠れ蓑」
世界は、とりあえずスポーツでまとまっているように見えますが、宗教や経済、あるいは国権というものでの軋轢(あつれき)は激しくなっています。
昨日からのニュースでは、またテロがヨーロッパで頻発しています。その原因は何でしょうか。テロを行うほうは宗教を旗印にしていますが、別に宗教対立というものではないようです。
相手が異教徒だから攻撃してもいいとはイスラム教でも認められていないようですから、これは、誰か、あるいはどこかの国を敵に仕立てて、国民をまとめるために(これは日本でもしてきました)、宗教を隠れ蓑にしているとしか思えません。
私も、大多数の日本人ように、生活の基盤を宗教においていませんが、これは、精神的には貧しいような気がします(若いときは、無宗教であることが、何か自立した人間のように思っていましたが)。
とにかく、宗教が憎しみの隠れ蓑になっていることは、人間全体にとって不幸であると思います(ほとんどの人間が無宗教の日本にとっては、そんなことは関係ないように見えますが、それが、犯罪を引きおこす宗教が生まれる背景かもしれません)。
隠れ蓑というのは、宗教だけではありません。たとえば、タレントのブログなどが、そのタレントの発言などで、「炎上」することがあります。
本人の責めに負うところもあるでしょうが、本人に対するやっかみとか妬みが原因のような気がするときがあります。
特に若い女のタレントの場合、それが多いような気がします(誰かのブログを読んだことはなく、ヤフーニュースの芸能欄を見るだけですが)。
陰に隠れてありったけの悪口を言うのは、自分もタレントになりたかった若い娘さんかもしれません。
朝日新聞で、最近再開された「折々のことば」で、「人が、嫉妬を感じるのは、経済的あるいは才能において飛びぬけた人に対してよりも、自分に近い人に対してである」というようなことが書いてありましたが、まわりには雲の上の人はそういませんから、嫉妬が社会も埋めつくしているのは、そういう理由からでしょうか。
隠れ蓑とは、それを被ると姿が見えなくなるという蓑です。つまり、人は、かっこ悪いものを隠すために、隠れ蓑を被っているうちに、何を隠しているのかわからなくなるのかもしれません。
ビジネスを考えるときも、社会の流れ、人の心理などを考えるように言ってきました。
それは正しいことですが、そこに隠れ蓑がないか疑うことが大事です。
それと、その隠れ蓑に、政府、つまり役人が裏打ちしていることがあります(政治家は役人の言いなりです)。
つまり、何か法律を作りたいときは、マスコミを通じて、「このままでは大変なことにある」といアドバルーンを上げるのです(それにひっかかったのが、介護保険ができたときの民間業者です)。自民党はマスコミ批判に忙しいですが、持つつ持たれつの間柄でもあります。
私たちは、隠れ蓑の中にあるものを見ましょう(本人が何かわからなくなっていても)。
失敗から得た経験を使えば、必ず見えてきます。