
話を聞く
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復活ノート
「話を聞く」
高校生のとき、愛用のメモ帳に、「日々を意味づけよう」と書いたことを覚えています。
思春期のときはそんなことをする者は多いと思いますが、「臥薪嘗胆」とか「努力に勝る天才なし」などのありきたりのものではなく、自分のオリジナルを考えたような気がします(当時から天邪鬼だったのです)。
受験に追われていた気分も感じられるような文章ではあります。しかし、そのような生活を送ってきたかは大いに疑問です。成績は低迷し、予備校に行かざるをえませんでしたから。
しかも、その後の人生は、「日々を楽しもう」になってしまった感があります。
人生の終わり近くになって、子供の時から、もっと自分に厳しく何かの問題を一日10問を必ず説くということをやっておれば人生は変わっていたかもしれないと悔やんでいる始末です。
今でこそ、分からないことがあれば人に聞くことができますが、社長、社長とちやほやされているときは、この世で知らないことはないという態度でしたので、事業でつまずいたときは途方に暮れるばかりでした。
先手を打つための情報を集めることができなかったのですから、待ち受けていた結果は必然だったのです。
性格はなかなか変えられないことは身をもって実証したわけですが、それなら、誰かの意見を聞くことを自分に課すのです。
ただし、これも程度の問題があって、易者に頼るのはどうかなとは思います(松下幸之助などの経営者でも高名な易者に聞いたことはよく知られていますが、もちろん、自分の考えを補足するために聞いたはずです)。
まあ、私たちは自分の社員や知りあいの経営者から聞くのがいいのではないでしょうか。
気心の知れた相手なら、自分の考えも聞いてくれます。私たちが、聞く耳を持っていれば、忌憚のない意見を話してくれるでしょう。
私の場合も、相手が私がすぐに気を悪くするという性格を知っているので、何か話してくれることはほとんどありませんでした。
多少は極端に書いているとは思いますが、女房も、全国展開などという拡張主義をやめて地道に行こうと何回も言ってくれたのにその意見を考えようさえしませんでした。
しかし、縮小すれば倒産しなかったかはわかりません。付け焼き刃で話を聞いても、そのときの最善の方法が分かるとは思えないからです。日頃からの信頼が人間関係の質を決めるのです。
私も、女房をはじめ、多くの他人に意見を聞くようにしています。残された時間は少ないですが、まだ迷うことも多いはずですから。