世も逆じゃ

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「世も逆じゃ」
旨加棒喰界(うまかぼう くうかい)じゃ。まだ送り仮名を打たなければならないのが残念じゃが、先日所要があって、大阪に行った。
電車や街中で人を見るのが何よりの楽しみでな。日頃山にこもっているので、世相もわかるとゆうものじゃ。それに、繁華街のうまそうなにおいがたまらん。
今や車内で、「最近どないしてんの?」などとケータイで長話をするものはおらず、ただ、手につきし鼻くそを画面になすりつける仕草があるのみ。
「SAY少々納言」のように言ってもはじまらぬが、これからも、このような「電子内職」が続くじゃろな。
大阪駅にある「ルクア」などという、それこそ鼻くそのような名前の商店街を歩いたが、若い女子(おなご)であふれていた。他にもいたじゃろが、気がつかんかった。
とにかく、若い女子がしゃべり、笑うのは、平和の象徴じゃ。昔から、若い女子は、「箸が目に刺さっても笑う」といわれているように(ちがったか)、どんなことにでも、笑えるのはうらやましいことじゃ。
そして、気がつくのは、背の高い女子が、ものすごう高いハイヒールをはいて、雲をつくようになっていることじゃ。男を睥睨(へいげい)して歩いている様は、「個性の発露」なんじゃろが、男であれ、女であれ、「こうであれかし」とゆうことが少なくなってきたんじゃろ(背の低い女子が、それを気にすることもなく、ペッチャンコの靴をはいているのもかわいいぞ)。
男のほうが、存外「こうであれかし」を気にしているのかもわからん。女子の歌で、「きみ、きみ」などと呼ばれんようにしっかりせんとな。
女子のほうが元気なのも含めて、若いタレントが「フジテレビは偏向している」と抗議するほど、「韓流スター」がもてはやされ、中国人が、「おいくら万元?」(「おいくら万円?」と言っていた時代がなつかしいか)と買物をするのを見て、「世も末じゃ」と思う人がいるやもしれぬ。
ちがうぞ。「世も末じゃ」ではなく、「世も逆じゃ」と思うべし。ただし、時計の針がぐるりと回るように、世の中も回っているだけじゃ。しかも、回るのに、理由がある。
「昔、押し売り、今、押し買い」もしかり。「不要のケータイなどのゴミが宝で、売れん商品はゴミ」もしかり。
ビールや酒を作っている会社がサプリを売り、カツラ屋が養毛剤を作るのもしかり。
その証拠に、「世も末じゃ」と嘆いても、世は続いている。それはなぜか。不遇のほうが、生きるエネルギーが高いからじゃ。今が最高と思えば(これはこれでいいことじゃが)、守りに入る(疑心暗鬼や嫉妬心が生まれる土壌でもある)。
そうは言っても、「わしはこんなに幸福だ。それなら、誰でもいい、殺してやろう」と思うもんはいないように、そこそこの幸福は、本人にも、他人にも悪いことはないのはゆうまでもないが。
よって、世の中のめぐりと自分のめぐりが、うまく合えば、幸福などすぐ手に入る。
「世が世なら」などとゆう言葉が浮かんだら、世間を「股のぞき」でもしたらええ。
「天橋立」よろしく、人は長くて細い橋を渡っていることがわかるじゃろ。
それは、おのれもそうじゃと思えば、今まで橋から落ちなかった幸運に感謝し、今後どう生きていくべきかもわかるはず。
そして、世の中は逆の場所にあると思うていたが、何のことはない、おのれが逆の場所にいるのだと合点がいくのじゃ。
世の中や他人を気にするでない。自分をしっかり見据えるのじゃ。
もっとも、わしも、背の高い女子のそばを通るときは背伸びして歩いているがな。

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