見る

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「見る」
前回は、人生でも、国でも、人間が作ったもんは、全部「仕掛け」があるとゆうた。人生の場合は、自分にあった「仕掛け」を作ることが成功の元やともゆうた。
せやけど、社会の「仕掛け」は自分で決められへん。青少年を守りたいけど、自動販売機をもっと守りたい(自動販売機1台の電気代は、一月1万円前後かかるらしい。それが、5,600万台もあるんやて)。
また、子供を守りたいけど、ケータイやゲーム機はもっと守りたい(いや、子供を守るために、ケータイやゲーム機があるんやとゆう理屈もあるやろうけど)。これが、今の日本が、いや世界が、文明の「仕掛け」の根幹においている。
そうゆう「仕掛け」を変えることはできないやろな。
今もっているもんを取上げられるのは、誰でもいやなもんや。としよりに、自動車免許を返上せえゆうても抵抗が多いそうな(「自分が否定されたようや」とゆうているとしよりがいた)。
人間の知能は、神をも凌(しの)いでいる。石油や石炭などの化石燃料がなくなっても、温暖化で地球がぐちゃぐちゃになっても、ちゃんとやりくりするはずやとゆうのやろな。
まあ、そうゆうことにしておこう(ぼくが生きている間は、「最後の日」を目撃することもないやろから)。
「見る」ことが大事とゆうてきたが、なかなかでけんもんや。医者でも、レントゲン写真で、病巣を見つけるのは技術がいるとゆうやないか。
それと、「見ない」とゆうこともある。見てはいけないもんや、見る価値がないもんを見ないのは、大人のマナーかもわからん(地球や文明の現在の様子はどっちやろ?)
子供が、障害がある人を見て、「おかあちゃん、あの人見て!」と叫ぶことがあるけど、そこまでせんでも、何かをじっと見てしまうことないか。
話をしているときだけでなく、黙っているときでも、相手の顔をしょっちゅう見るもんがいる(相手が、「彼女」でなくて、単なる友だちでも)。
見られたほうは落ちつかんけど、ぼくも、相手に、鼻の下などにホクロがあれば見てしまう。あかん、あかんと思うのやけど見てしまう。
以前、テレビの取材をよう受けたけど、すわっている女性レポーターの膝頭の間にすぐ目がいって困ったことがあった。
相手は、「この変態!」と思うているやろなと思うと余計にそうなる。
今も困っている。毎日、Yの字になっている細道を車で通るけど、Yの字の下の棒のところで、分かれ道の安全を確認する。
道と道の間に家があって、その三角の庭に、おばあちゃんが洗濯を干している。息子と二人住まいのようやけど、息子(ゆうても、ええおっさん)か、自分のパンツを先頭に干す決まりにしていて、それが、目の動きにぴったりの高さや。見んようにしているけど、目が一瞬とまる。その一瞬の間に、色・形が目に入る。
それと、パンティラインを見てしまうのも困る。女で男でもお構いなしや。テレビのゴルフ中継の女子ゴルファーが構えているときでも、郵便局で話をしているおっさんの後姿でも、まずそこに目が行く。
「誰でも、パンツぐらいはいているわい。もっと大事なもんを見んかい」とゆわれたら、「そう思います」としか答えられへん。
「見る」とゆう行為は、その人のリビドーに結びついている(生きるためのエネルギーという意味でのリビドーやけど)。ぼくのは、高校生のようなリビドーのままなんやろな。
また、「見る」と「見える」がある。
以前、ある晩秋の早朝、ごみを捨てに行ったとき、同じようにゴミ袋を持った若い主婦が、東側から低い坂を下りてきた。そのとき、まだ下のほうにいた太陽の光がきつくて、その主婦のスカートの中が透きとおって見えた。その光景が、ぼくの印画紙に焼きついてしもうた。
どうせぼくは下品です。変態です。こうなったら、見たもん、見えたもんを分類する技術を磨くしかない。みんなも、自分の心が命ずるもんをどんどん見よう。

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