言葉あるいは他力本願(2)

   

今日もムーズが降りて来た~きみと漫才を~
「言葉あるいは他力本願」(2)
前回は、言葉は、それをゆうたもんとの関係で受けとり方が決まるゆうた。
「巨人軍は、永久に不滅です」ゆう、ちょっと変な言葉も、長島が好きなもん(巨人は嫌いでも、長島はヒーローと認めるもんは多い)にとっては、心に残る言葉やろ。
一方、「他力本願」は、糸が切れ凧のように、なんぼ坊さんが仏教的な解釈をゆうても、「他人に助けてもらうこと」とお気軽に使う。そら、ぼくらのように、困ったときに、金を貸してくれたり、支払いを待ってくれたら、その人は、神や仏に見えるもんな(そんなことゆうたら、また、どこかの坊さんが、「他力本願とは、阿弥陀仏の本願に沿って・・・」とかゆうてくるか)。もっとも、イスラム教やったら、勝手に解釈して使うたらたいへんや。イスラム教では、「高利貸し」ゆう商売が認められへんから、金が利息を生む企業投資をどう正当化するか延々ともめていたぐらいやから。
そうすると、言葉ゆうもんは、単なる入れもんにすぎんのやろか。
検索エンジンの「グーグル」が、「Igoogled it」みたいに、「google」を一般名詞で使わんといてくれと抵抗している。「ニンテンドー」が、パソコンゲームを意味するようになるのみたいなのはかなわんらしい。市民権を得るとうれしいと思うけど、一般名詞になると、商売がしにくくなるのか、変なイメージがつかんようにするためかしらんけど、「攻撃は最大の防御」とゆうことなんやろな。
人は、自分が思う以上に言葉を気にしたり、影響を受けるもんらしい(他人のゆうこと全く聞かんゆうもんでも、気が弱くて、人の顔色が気になるもんや。自分のことやからようわかるてか)。
とにかく、人は、言葉を咀嚼したり、また消化不良になったりして生きていくわけや。
学校の先生に励まされたことで勇気づけられたゆう人もいるやろし、「姑に『あんたの嫁入り道具は少ない』ゆわれたことは一生忘れへん」と、50年前のことを根に持つ主婦もいる(その主婦は、今にエライ目に合わせたるともゆうている。姑は、90越しているのに)。
いよいよ「今年の言葉」やけど、マラソンの高橋尚子の「今暗闇にいる人が元気になるように走ります」ゆうのも、ちょっと稚拙やけど、心に響いた(タレントやスポーツ選手は、こうゆうことをようゆう)。
ほんまダンテの「神曲」のように、「人のいのちの道のなかばで、正しい道をふみはずして、」「暗黒の森の中」にいるぼくには、娘に励まされたようにうれしかった(とてもほんまには思えんてか)。本人も、早う薄暗がりから出てきてほしいなあ。
それでは、今年のムーズ最優秀賞の言葉は、「わたしは、娘が他人の中身を見るように教育してきましたの」や。お笑い芸人と結婚することになった美人タレントの母親が、芸能レポーターに答えた言葉や。ええやろ。悔しさはさらりと出ているけど、他人を傷つける毒は一切含まれていないから、聞いた人の琴線を打つ。
とっさのときでも、こうゆう言葉がゆえるように、人間を磨こうっと。

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