言葉あるいは他力本願(1)

   

今日もムーズが降りて来た~きみと漫才を~
「言葉あるいは他力本願」(1)
年末になると、新聞などで今年印象に残った言葉が出る。また、流行語大賞とか清水寺での漢字も恒例や。
清水寺が、こうゆうことをするのは、108才まで生きた大西良慶管主がいたからやな。
「人間は驕(おご)ってはいけないの」とゆうような説法は社会的な影響力を持っていた。
今や寺や神社は桜や紅葉の名所みたいになっているけど(あんなんは明治初期にどこかの寺がはじめたことらしい。最近は、ライトアップまでしてデートスポット化している)、もっとすることがあるんやないかと思うけどな。
確かに、今も作家で坊さんの説法が有名や。そこでボランティアしている人に聞いたけど、時々「客の受けが悪いのは、あんたらのせいや」とヒステリーを起こして、途中で帰ることもあるらしい。「わたしの話を聞くと、みんな腹の底から、笑うようになります」とかゆうているけど、「悟る」ことは、坊さんでもむずかしいようや(女やからとは、絶対にゆわへんけど)。せやけど、「ズバリ言うわよ」とかゆう、うさんくさいもんとはちがうで。
坊さんついでにゆうと、昔、誰か有名人が、「他力本願ではなく、自分の力でやりました」とかゆうインタビューが流れると、必ずどこかの坊さんが、新聞の投書欄に「だれそれは、『他力本願』の使い方をまちがっています。『他力本願』とは、他人の力を借りることではなく、仏を信じて、正しい生き方をすることです」とかなんと書いていた。まるで「もぐら叩き」のようやった(もちろん新聞社が、「ゆうたり」と考えていたからやけど)。
最近は、坊さんもあきらめたらしいな(ぼくら仏教のことはようわからへんのやから、そんなことばっかりゆうててもしゃあない)。
それではムーズも今年の言葉を取りあげようか。せやけど、年中、人の挙足(あげあし)取りをしているから意味ないてか。
「ムーズは、永久に不滅です」とゆうわけか。ところで、これも、長島やからこそ許される言葉になった。他の選手がゆうたら、「馬から落ちて落馬した」とか「危険が危ない。えーポテチン」やないかとゆわれたはずや。
この言葉は、当時神のご託宣のように取りあげられていた。文法学者が、「へんな言い方や」と投書しても、載せてもらわれなかったやろうし、さすがの山藤章二や天野祐吉も、「何をゆうてんのか」ゆう批判を避けるために自己規制していたかもしれんな。
言葉をどう取るかは、その人との関係で決まるんやろ(もちろんその言葉をゆうた人を知らんでも)。
好きなもんなら、稚拙な内容、稚拙な言い方でも、その言葉は、心に、永久に不滅なんやろな。
奈良で、大学教授が、通りががりの子供に「誘拐するぞ」ゆうたゆう事件があった。裁判までなって、結局、「一人では危ないよ」とゆうただけやったらしい。知らんもんの言葉は、こんなふうになる。

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