あんじょう

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「あんじょう」
「吉兆」のお上が、例の事件の後、家業を守るべく社長に就任したとき、「わたしが代表になったほうが、あんじょうできると思って」と挨拶したやろ。
「あんじょう」は、「味よく」から来ているようで、「うまく」というような意味や。
料理屋だけに、「味よく」とゆうたんかと思うかもしれへんけど、昔は、大人は誰でも、「あんじょうしいや」などとゆうていた。
ところで、「吉兆」は、お父さんが、日本を代表する料理人で、その子供である姉妹4人が、それぞれ婿養子もうて、同じ商売をするとゆう特殊な一族や。
典型的な花登筐(はなとこばこ)の世界やけど、姉妹4人、婿養子4人、そして、それぞれの子供の心の内は、部外者にはうかがいしれんもんがあるやろな。
その記者会見の「あんじょう」は、ひさしぶりに聞いたもんでも、初めて耳にしたもんでも、印象深かったようや。
ぼくの子供も、「初めて聞いた」とゆうていたけど、それは、ぼくらが使わなくなったからや。ぼくらの親は使うていたのに、ぼくらは使うていない言葉はなんぼでもある。
もちろん、ぼくらの親の時代にも、ぼくらの子供のときも、そうゆうことが起きて、言葉は変わっていくのやろけど。
5億年前のカンブリア紀以来(今は、エディアカラ紀から始まるらしいけど)、動植物の絶滅はくりかえされてきた。
近い将来人間の絶滅もあるような、ないようなとゆわれているとき、言葉なんかどうでもええし、あと100年もしたら、方言どころか、日本語もいらんようになるかもしれん。
そんなとき、関西の方言一つぐらいどうでもええようやけど、「あんじょうしいや」とゆう言葉を聞くと、「しっかりせえ」以上の、いや、それ以上の気持ちあったことがわかったんや。「わたしがついているからな」といったような。
関西弁を聞くと、虫唾(むしず)が走るゆう江戸っ子が多いけど、甘え声で「いやや」とか「かんにん」とかゆわれると、たまらんとゆう東京の男もおるらしいな。
初めて見るものに興味が引かれるようなところあるやろけど、「あなたの気持ちは十分わかるけど」とゆう意味が汲みとれるのかもしれん。
方言はせまいところで使われているからから、家といっしょで、自分の心を戸締りしてへんからな。
ところで、「きさんじ」ゆう言葉がある。「気楽なことばっかりゆう人」に使われるけど、「それでも、くよくよせずに前向きに生きる人」でもある。
また、「やたけた」は、「自分勝手な振るまいをする人」やけど、「それでも、なんか憎めへん人」でもある。
方言は間口が広いけど、そうゆうことは、だんだん許されへんようになるから、絶滅の道を進んでいるのやろか。
「やたけた」でも、「きさんじ」の人生を送るのが夢やけど、「てんご」が過ぎて、ちょっと「わや」になっているけど、おばあちゃんが、どこかで、「あんじょうしいや」とゆうてくれているような気がする。

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