田中君をさがして(32)

      2016/04/05

パパは、海に沈む夕日を見ながら、僕に言った。「パパが、どうして、悠太を、田中君に会わせたかったというと」と切り出したが、自分ひとりでは心細かったからのような気がしているけれど、今は、黙って利くようにした。「田中君が、夢に出てきたんだよ。パパの困っているのを見かねたように、「どうした。ぼくだよ、田中だ」と近づいてきたんだ。田中?パパは、どこの田中かわからなかった。何か怪訝そうな顔をしていたんだろうな。吉田小学校で、3年までいた田中だよといって、微笑んでいるんだ。えー、僕がいつも会いたかった田中君か。と聞くと、そうだ、僕も、ときおり思い出すことがあった。ママが帰ってきたのをとても喜んでいたね。日本での子供時代を知ってくれているのは、君だけだもの。
ランドセルを背負っているんだ。パパは、何がなんだかわからなくなっていると、目覚めた。田中君も、パパのことを知っているんだ。どうしても会いたくなった。
田中君は、夏休みの工作」を持ってきた。パパたちは、遊びついでも取った昆虫採集だけだったらしい。今考えると、先生も癖壁壁ていたに違いない。パパは、自動販売機をやろうとして、10円玉を入れると、雨が落ちてくるように考えたが、時間切れか、考え切れであきらめて、何か妙なものを持っていたといっていた。そこへ、海底の様子を作って持ってきたらしい。セロファン紙を使って、魚や泡亀がいた。みんなびっくりしたらしいのだ。それから、しばらくして、田中君は、学校へ来なくなったのだ。先生から、多分話があったから、パパも覚えていたのだが、なぜか、田中君の野話題が、出てくることはなかったらしい。パパも最近までッ忘れていたが亜、夢に出てきたのだ。
ぼくも、パパに言った。小学生は義務教育でしょう。これは、犯罪ではないの。ぱぱは、言った。勉強とは、まず見ること。それは、だれでも反対すること花愛と思うよ。いつかみんなわかってくれるから。ということらしい。
ぼくが、最初に聞いたのは、飛行機で行ったほうが早いし、安いらしいのだ。でも、パパは、絶対に其れは譲れないと僕に言った。田中君は、船で言ったのだ。そんなことにこだらるのがパパらしい。ぼくも、学校の図書館で、ブラジルへ移民した話を読んだ。大変な苦労らしい。それなのに、ぼくらは、世界一周の豪華客船だ、それについても、パパに尋ねた。気持ちが大事だからといった。
ぼくは、ママに手紙を出した。
「ママ、急なことでごめん。パパとブラジルに行くことになりました。事情は、ときどきてがみを出すから亜、それを読んで。」
船上での家長教育がはじまった。かちょうとはなにか。パパにとって、二人の叔父さんのd期ごとがきっかけになった。ぼくも、パパの話から二人に絵依拠されているのはわかった。
あるとき、夕日を見ながら、パパと話をしているとき、隣のテーブルに巣会っていいる男の人が、時々こちらを見ているのが分かった。
船のうえはたいくつだ。パパもようやく気づいて、「ゆうひがきれいですね」とかなし始めた。パパは、手紙を取り出して、読んでいた。ぼくも読んだことがあるから、ここに書いてみよう。
「叔父さん、久しぶりです。です。父親が死んでから、一度帰りたいのですが、仕事が増えて今のところめどが立ちません」

これは、田中さんからの手紙だ。それではどうして、ぼくらは、サンパウロの田中さんの住所がわかったかをいおう。
芳川さんは、パパは思い出した。ちょっとあこがれていたこともあるらしい。長い神で、背が高くて、はつらつとしていたといっていた。箸を持つのが名が暮れ、まずそうに見えるから、もうちょっと短く握れ。赤い山河状況ウ生徒キス阻止と言う噂が広がった。唇がめくれているのはその生だという噂が風呂ガッタ。幼稚園のときから知っているので、m唇は変わっていないようだが、馬列少しめくれ上がっていたのだ。少し大人ぶって見えたのだろうか。そのとき芳川さんは、赤井さんをかばって、陰口を言っている男子を日とりづづ呼び出して叱ったらしい。それで、そこの町に行って、田中さんのことを、他ずれたのだ。ぼくも、一緒に言った。あるところで、聞くと、小林君かと言うウおばさんがいた。其れが、芳川さんだった。芳川さんは、離婚して帰ってきていた。そこには、ヘルパーさんがいた。何を調べとるんか。帰れという頃が聞こえた。芳川さんは、私が聞いておくよといってくれた。
数日すると、芳川さんから手紙がきた。そこには、懐かしい九手うれしかったと言うように掻かれていた。私も行きたいぐらいよ。でも、悠太君と二人で、がんばってと書かれていた。そこには、たなかクンきた手紙が入っているのだ。
パパは、ゆっくり見直していた。
どんな気持ちで、船に乗ったのだろう。海底の風景を作ったぐらいだから、海は好きだったのだろう。でも、本を読むと、大変な航海だったようだから、小学4年生では、どんなにか辛かっただろう。でも、ぼくらは、快適だった。物見うさんというべきものだった。
パパの家長教育や田宮さんの話し。
「見るべきほどのことを見て」
平の敦盛は、そう思わなければならなかったか、あるいは、あまりに多くのことを見てしまったか。もっとも、平家の女やその子供たちは、海のそこに我らの世界があると言って、海に沈んでしまったと言うことだ。まだ夢があったのだ。

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