田中君をさがして(2)

      2016/04/09

ママは、花だけでなく、音楽も大好きだ。
学生の頃、コーラス部に入っていたのだ。ぼくが、生まれたときから、ずっと歌を聞かせてくれていたらしい。
しかし、ある日、車の運転をしていたとき、歌っていると、急に声が出なくなった。
風邪かなと思ったんだけど、それからも、高い声が出なくなった。ママは、喉のガンになったのだ。手術をしなければ、ほかに転移すると、医者に言われたとき、僕やこれから生まれてくる子供(妹ののぞみだけど)に、歌ってやることができなくなるのが悲しかった。
しかし、死んでしまうと、あなたがたが、どんなふうになるのか分からないのがもったいないと思ったと言った。
とにかく、生きていくことが大事だからと手術を受ける決意をしたのだ。
なにしろ、ママは、若い頃、電車に乗っているとき、周りにいる大勢の人の一人一人と話さずに下りるのは、なんてもったいないと考えていた人だ。
実際、あちこち旅行して、おとしよりと話した内容をノートにつけている。
ほとんどの人とは、もう二度と会えなくなるかもしれないのだから。特に、おとしよりの人生は、とってもおもしろいのよ。
ママは、そう言って、いろいろな人と話しなさいと忠告してくれる。
生きることはすばらしいよというのが、ママの哲学だ。
医者は、ママのことが理解できたので、なるべく声が残るように、細心の注意でやりますと言ってくれた。
そうして、ママは、元気になったし、声も残った。今でも、疲れると、少しかすれるけど、別に問題ない。
ママの言葉は、いつも、ぼくの考えていることのそばまでくるから、聞きづらくても、全然問題ない。しかも、若い頃のママが歌っている声が、テープレコーダーに残っている待てよ、花が咲いたり、ミツバチが飛んだりしている!
から、大丈夫なんだ。
新年になったばかりなのに、もう春になったのか。
それじゃ、あの風は、冬を追い出すために、山を吹き飛ばすかのように吹いているのか。そして、ぼくは、花畑に寝ている。
ハチはどうしただろう。白や黄色のチョウチョウが飛んできて、花に止まっている。
あのハチも、花に止まって、蜜を吸わないのだろうか。ぼくは、また鼻の頭を見た。ハチは、まだいた。
とにかく、早く追い払わなくては思ったが、こんなことはめったにないので、ちょっと様子を見てやろうという気がした。10才になるまで、こんな光景は、初めてだった。
そのハチは、ぼくの方を見ている。なんだか、人間の子供のような顔をしている。
そして、何か、ぼくに話しかけているような気がした。羽音は止んでいたけど、声が小くて聞こえない。
ぼくは、「えっ、何か言っているの?」と声を出した。ハチは何か笑っているような気がした。まさか、そんなことがあるわけがない。
しかし、刺されて、鼻の頭が腫れ上がると、みっともないので、絶対、動かないことにした。ぼくは、寄り目をして、じっとそのまま、ハチを見ていた。
また、羽を動かし始めた。羽音が、ブーンと聞こえてきた。
そうすると、ハチは、ヘリコプターのように、ぼくの鼻から離れていった。刺されなかったらしい。そして、ほんとに刺されていないか、鼻を、フンフンさせていると、バターのとける匂いがしてきた。香ばしくて、お腹がすいてきた。ぼくは、目を開けた。
暗かったけど、そこは、自分の部屋であることは分かった。ぼくは、いつものベッドに寝ていた。そうか、ぼくは、夢を見ていたのか。
あのハチは、2,3日前に、ママと庭にいたとき、どこからか飛んでできたハチに違いないと思った。
あの日は、お正月だったのに、ぽかぽかした日だった。春と思って飛んできたのよとママ入った。
バターといっしょに、パンが焼ける匂いもした。コーヒーカップを、受け皿に置く音も聞こえた。一階で、みんな朝食をしているのだ。
今日は、ママも、病院へ行く日だと言っていた。ぼくも、もう起きなければならないのか。
ゴホン、ゴホンと、咳(せき)が聞こえた。コーヒーカップが当たる音も、少し大きくなった。ゴホン、ゴホン、ガチャ、ガチャ。みんなパパの仕業だ。パパは、緊張すると、咳をする。
しかも、恥ずかしいからか、酸素が少なくなるのか、顔がだんだん赤くなる。それを見ていると、心配になってくる。
きっと、新聞で、自分の顔を隠しているだろう。
ぼくは、おかしくなったけど、ママに、秘密を気づかれないようにしなければと気が気でなかった。
のぞみの声も聞こえたから、のぞみも、要注意だ。パパは、よく気づくママとのぞみにさとられて、変なことを言わないようにしなければならない。
パパは、嘘をつくときとは言わないけれど、何か口ごもっているときには、咳をするようだ。
パパも、そのことを気にしているようで、いつか、ぼくに、咳は、言葉であるというようなことを言った。
大人は、不機嫌なときや、話を止めさせるときなど、咳を使うのだ。
また、自分をえらそうに見せるときにも、咳をする。ゴホンではなく、ホホンというように。

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