シーラじいさん見聞録

   

シーラじいさんは、疲れているのか、あるいは、泳ぎがうまくないのか、体を少し下に向けてのろのろと泳いでいたが、わたしの声がきこえたのか、止まって、こっちを見た。
目は、黄緑に輝いていた。しかし、薄暗いので、わたしたちがよく見えないらしい。
わたしは、心臓が破裂しそうになったが、意を決して、シーラじいさんに近づいた。
みんなも、そんな思いでついてきただろう。
近づくについて、影は、薄暗がりから浮きあがるように濃くなり、はっきりした形になっていった。
シーラじいさんの体は、丸太ん棒のようにずんぐりしていて、驚くほど大きいのがわかった。人間の大人ぐらいあるかもしれない。
わたしは、みんなに押されるように、もう少し前に進んだ。
シーラじいさんは、あいかわらず体を下に向けた形で、わたしたちをじっと見ていた。
わたしは、その様子にたじろいだ。言葉をかけることもできなかった。
しかし、そこから逃げだすことをしなかったのは、確かに写真で見たように、いかつい表情であったが、ある種のサメなどのように、生存のために自分の能力を研ぎすませてきたものが持つ表情とはちがうものがあった。
大きいといっても、サメほど大きくないのに、早く泳ぐことができないようだし、顔も、口がとがったりしていないので、どこか間延びしたように見えたからか。しかも、口の下には、ひげのようなものがあった。
確かに、ここは、生存のためにはきびしい環境なのはすぐわかる。シーラじいさんの種族以外は、そんなに見なかったからだ。
それでは、穏やかな表情が垣間見えるのは、種族特有のものなのか、あるいは、大佐なのに、みんなからシーラじいさんと親しまれていることから考えて、シーラじいさんの性格かはわからなかった。
シーラじいさんは、まだじっと見ていた。わたしたちが、誰なのかはっきりとわからなくても、私たちの様子で、今まで見たことのない者と感じていたからだろう。
「おまえたちは、だれだ?」
その声は、先ほどから聞きしっていたが、わたしのほうに発せられると、相手を射すくめる目と同じように、老人の声ではあったが、相手の第一声を促すような響きがあった。
つまり、問いつめる口調ではなく、「どうぞわしに教えてくれ」というようだったのだ。
一つの小説の運命は、最初の文章で決まるといわれるように、相手との関係も、まず最初の声から、その道筋ができるかもしれない。
わたしは、「人間の日本人です」と緊張して妙な返事をした。
わたしに同行している人たちも身を堅くしているのがわかった。
シーラじいさんは、わたしの返事に驚く様子ではなく、「よくこんなとこまで来たな」と、感心したように言った。
わたしは、その言葉に励まされるようにして、今までのいきさつを話した。
自分は、小林悠太という、40才の男であり、小学生のとき、人生に行きづまった父親といっしょに、地球の表面にあるブラジルという国へ旅行したが、そこで誘拐されたことなどを話した。
「見るべきほどのことを見つ」という遠い昔の武将の言葉が気に入っていた父親は、自分にとっても、子供にとっても初めての世界を見て、それをこの世の最後にしたいと考えていた。
しかし、そこで経験したことから、この世には、まだまだ「見るべきほどのこと」はあるとわかり、また自分の人生を切りひらく気力を得て、最後まで精一杯生きたことなどを話した。
そして、わたしも、人生の半ばで、その言葉について知りたくなり、ここにやってきたことを話した。
「その言葉は、平知盛が言ったのだな」
「えっ」
わたしだけでなく、同行している人たちからも、驚きの声が次々と上がった。
何か信じられないような、いや信じられないことを聞いたのだ。ぼくは、後ろを振りかえった。みんな目を見開いたままだった。
「どうして知っているのですか」と、わたしは尋ねた。
シーラじいさんは、「わしらと人間とは、そう離れていないぞ」と澄ました表情で答えた。
同行している山田さんが、「そういえばそうだわ。地上から、ここまでは700メートルしか離れていないのよ」と大きな声で叫んだ。
「そうだけど、ここは、深海から比べれば、たいしたことはないが、700メートルは70気圧あるんだ。これでは、人間は生きていくことができない」と山口さんが説明した。
「つまり、ここは、日本とブラジル以上に遠いっていうことだね」と佐々木さんが、みんなの同意を求めた。
その場の空気は、一気に和やかになっていったが、私は、記録係とともに案内役もしているので、その場をまとめるために、シーラじいさんに聞いた。
「人間のことをどうして知っているのですか?」
「昔から、お前たちが海に落すものを調べている。最近は、潜水艦や潜水調査船を見る機会が多い」
わたしたちは、それにも声にならないほど驚いた。
「人間の文明は、たかだか1万年ぐらいじゃないのか。わしらは、ほとんどのことを知っているぞ」
「この2,30年の間に、人間の文明はさらに進歩しました。コンピュータというものを発明したからです。交通機関だけでなく、通信にも使われ、ほんとに地球は狭くなりました」
「それじゃあ、お前の父親の話もコンピュータで世界中に広まったのか?」
「そうです。『まぐまぐ』というインターネットのサービスです」
「まぐまぐ?」
わたしは、パソコンやインターネットの仕組みを説明した。
「それで、どれくらいの人に読んでもらったのか?」
「10人ぐらいです。正確には11人です。今日は、1人は病気で来られなかったのです」
シーラじいさんは、あっけに取られたように黙った。
しばらくして、「お前は、『山高き故が故に貴からず、樹有るを以て貴しとす』という言葉を聞いたことがあるか?」
「いいえ」
「お前についてくる人を大事にしなくちゃな。ところで、電波は、わしらも昔から使っているぞ」
シーラじいさんは、ゆらゆらと去っていった。

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