「パパとぼくの冒険」一章

   

ゴォー、ゴォーという音がしている。
ぼくは、何の音だろうかと、目を開け、耳をそばだてた。
雲が、ものすごい勢いで、飛んでいる。
雲は、何重もの層になっていて、層によって、色が、黒っぽいものから、白っぽいものまである。
特に、下のほうの雲は、みんなについていけずに、ちぎれた雲が多い。
まるで、何かに追われている、羊やシマウマのような動物に見える。
しかし、そのありさまは、大量に水が落ちているかのようにも思えたので、ぼくは、どこかの滝の後ろにいるかもしれないと思った。
しかも、どこかにいるとしても、ぼくは、すわってなくて、寝ているようだ。
ゴォー、ゴォーという音は、滝の音だったのか。
ぼくは、その音を、ちゃんと知りたくて、いや、ぼくが、どこにいるのか知りたくて、辺りを見回した。
どうやら、滝の中にいるのではないようだ。遠くで、激しく揺れている竹やぶが、目の端に見えた。
この前、読んだ「怪談」の中に出てくる雪女が、怒り狂って、長い髪の毛を、振り乱しているようだ。
そうすると、ゴォー、ゴォーと鳴っているのは、雲を飛ばし、竹や木を引きちぎろうとしている風の音なのか。
この世は、どうなっているんだろう、そして、ぼくは、どうしたんだろう。今までのことを思い出そうとした。
そうしたら、鼻の頭が、かゆくなったので、何か止まっているような気がした。
ぼくは、寄り目にして、それを見た。ハチが、一匹止まっていた。目から、10センチも離れていないだろう。
こいつは、ミツバチだ。
ぴくぴくしているお尻が、黄色と黒の縞模様になっている。少し安心した。
雀バチなら、大変なことになるところだった。
今、そのハチは、ぼくの鼻に直陸したところだろうか、足場を決めるために、羽音を、まだブンブンさせている。
ぼくは、びっくりしたことより、確か、まだ冬なのに、なぜ、ハチがいるのか不思議に思った。
ハチに刺されないために、身体を動かさないで、なるべく目だけ動かして、自分がどうなっているのか、もう一度、辺りを見た。
赤や黄や白の花が、何百本も、ぼくの周りに咲いている。そして、その花の名前が、全
部言えるのだ!
赤い風車のようなのはデージー。
女の子が紫色のスカートをはいたようなカンパニュラ。
手まりのようにかわいいデモルフォセカ。
そして、これは、ヒヤシンス。あれは、雪割草。マーガレットも咲いている。
次から次へと、名前がわかる。
なんて愉快だろう。まるで、教室に入って、机に座っている友達の名前を言うようなものだ。木崎、高橋、寺尾、吉岡・・・。
すごい、すごい!ぼくは、自分に感動したが、なんだ、この前、ママと一緒に見た植物図鑑に載っていたものばかりじゃないかと気がついた。それじゃ、わかるはずだ。
この前、ママの横にいたくて、どこにも遊びに行かなくて、朝から、晩まで、ママにくっついていた。
ママも、ぼくに、話したかったらしく、ずっと、ぼくの相手をしてくれた。
いつも、ママと一緒にいる、妹ののぞみと猫のピカソが、今日は、どうしたのという顔をしていたが。
午後から、ママが、植物図鑑を広げて、ぼくに、庭にある植木鉢には、こんな花が咲くのよと教えてくれた。
そのとき、初めて聞く花の名前が、ぼくの頭に入ったらしい。
もっとも、花や木の名前なんて、本人(?)にはわかっているのかな。
犬や猫は、名前を呼ばれると、しっぽをふったり、鳴いて返事をするが、
花や木が好きな人は、花や木が、笑ったり、うなずいたりするのが分かるのかも知れない。
犬や猫、そして花や木は、自分たちを守ってくれるのだから、人間が、勝手な名前をつけるのを許しているのだろうか。
プゥー。ぼくは噴出した。女の子が、顔にひげを描いて、おどけているような花を見つけた。パンジーだ。記念写真を撮るときに、こんな事をする女の子はどこにでもいるものだ。
とにかく、ママは、花が大好きだ。
もちろん、ぼくだって、花は、きれいものと思うけれど、心が、どきどきしないんだ。みんな、自分の好きなものは別々だ。ぼくが、心から好きなものは、まだ見つけていないけれど、無理強いされて、好きになることはないだろう。
ママは、花や木や星などの名前を、どんどんおぼえなさい、そこから、すばらしい世界へ行けるからと言っている。
しかし、ぼくは、花が好きなママが大好きだ。
ママは、花だけでなく、音楽も大好きだ。
学生の頃、コーラス部に入っていたのだ。ぼくが、生まれたときから、ずっと歌を聞かせてくれていたらしい。
しかし、ある日、車の運転をしていたとき、歌っていると、急に声が出なくなった。
風邪かなと思ったんだけど、それからも、高い声が出なくなった。ママは、喉のガンになったのだ。手術をしなければ、ほかに転移すると、医者に言われたとき、僕やこれから生まれてくる子供(妹ののぞみだけど)に、歌ってやることができなくなるのが悲しかった。
しかし、死んでしまうと、あなたがたが、どんなふうになるのか分からないのがもったいないと思ったと言った。
とにかく、生きていくことが大事だからと手術を受ける決意をしたのだ。
なにしろ、ママは、若い頃、電車に乗っているとき、周りにいる大勢の人の一人一人と話さずに下りるのは、なんてもったいないと考えていた人だ。
実際、あちこち旅行して、おとしよりと話した内容をノートにつけている。
ほとんどの人とは、もう二度と会えなくなるかもしれないのだから。特に、おとしよりの人生は、とってもおもしろいのよ。
ママは、そう言って、いろいろな人と話しなさいと忠告してくれる。
生きることはすばらしいよというのが、ママの哲学だ。
医者は、ママのことが理解できたので、なるべく声が残るように、細心の注意でやりますと言ってくれた。
そうして、ママは、元気になったし、声も残った。今でも、疲れると、少しかすれるけど、別に問題ない。
ママの言葉は、いつも、ぼくの考えていることのそばまでくるから、聞きづらくても、全然問題ない。しかも、若い頃のママが歌っている声が、テープレコーダーに残っている待てよ、花が咲いたり、ミツバチが飛んだりしている!
から、大丈夫なんだ。
新年になったばかりなのに、もう春になったのか。
それじゃ、あの風は、冬を追い出すために、山を吹き飛ばすかのように吹いているのか。そして、ぼくは、花畑に寝ている。
ハチはどうしただろう。白や黄色のチョウチョウが飛んできて、花に止まっている。
あのハチも、花に止まって、蜜を吸わないのだろうか。ぼくは、また鼻の頭を見た。ハチは、まだいた。
とにかく、早く追い払わなくては思ったが、こんなことはめったにないので、ちょっと様子を見てやろうという気がした。10才になるまで、こんな光景は、初めてだった。
そのハチは、ぼくの方を見ている。なんだか、人間の子供のような顔をしている。
そして、何か、ぼくに話しかけているような気がした。羽音は止んでいたけど、声が小さくて聞こえない。
!パパとぼくの冒険」

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