日常日本語会話

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復活ノート

「日常日本語会話」
島田紳助が消えた後、お笑いコンビ「くりーむしちゅー」などが頭角をあらわしてきました(マツコ・デラックスが、「今やアジア一の司会者よ」などというほどです)。
そのお笑い界の先輩であるビートたけしは、映画制作費を捻出するためか(映画は、外国では高く評価されているようですが、日本では誰一人見たことがありません)、頻繁にテレビに出ていて毒舌を吐いています。発言内容は計算されているのでしょうが、誰からもクレームがありません。
それは、石原慎太郎にでも言えることで、首都大学かどこかの卒業式に出て、「みんな、中国をシナと呼べ」などと持論を展開していましたが、最近では、マスコミさえ報道はしても、腹の中では笑っている始末です(当の中国でさえ、昔は抗議していましたが、最近は馬鹿らしくなったようです)。
今、不況を乗りこえられないのは、迅速な対応ができない民主主義に原因があるといわれていますが、何を言っても許されるということも弱点の一つかもしれません(もちろん、何を言って、何をしてもいいのです。その逆もです。たとえ職場でも、「君が代」を強制することなど論外です)。
しかし、「ほんと」の政治家は、民主主義を守るために、いや、新しい民主主義を作るために、もう少し言葉の使い方、いや、言葉はどういうものかを、もっと考えてほしいと思います。
政策も変わるだろうし、マニフェストやらを反古(ほご)にすることもあるだろうと思いますが、「多数決が民主主義」と信じているかぎり、混乱は終わらないような気がします。
消費税や原発でも、「とりあえず上げます、動かします」だけでは、野党や小沢一郎を黙らすことができません(原発はともかく、消費税は、ほとんどの国民は賛成しているのに)。
出版不況が言われて久しいですが、政治家と同じように、詩人や小説家の言葉に力がないから、読者が見向きもしなくなったのです。
特に詩は、一節でも人を動かすことができるのに、です(100才の人の詩が一番売れているというのですから、日本には詩人はいなくなったのでしょうか)。
復興は、言葉の力を気づかせることからです。困っている人がいたが、「言葉を出す勇気がなかった」など言いますが、「言葉には力がある」と信じていれば、そんなに勇気がいるものでしょうか。
私の会社があるマンションに住んでいる人と「ごみ置き場」で会うことがありますが、会釈をしても、言葉を交わすことは嫌で嫌でたまらないようです(それは、ときどき新聞の投書欄にも載っていますから、私の場合だけはないようです)。
どんな理由があるにせよ、「おはようございます」だけで、相手を、その日一日楽しくさせることができるのに、もったいないなあと思います。
「松下政経塾」や「維新塾」などのディベート教室もいいですが、「日常英会話」、「日常中国語会話」などのように、「日常日本語会話」のビジネスはどうですか。
挨拶、道を聞く、相手が困っているとき、面接を受けるとき、初めて恋人の家に行くときなどに分けたらおもしろいですね。
「引きこもり」など、対人関係がスムーズにできない人を、社会復帰させるかもしれません。自分の言葉が、相手の心に伝わることがわかるのですから。