そのとき、人生は動いた
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「そのとき、人生は動いた」
梅田の轢きにげ犯は、どうしても逃げたくなる理由があったようや。
あの若い男は、今頃、小室哲哉とおんなじように寒い独房で、あの時アクセルやのうて、ブレーキを踏んでいたらと後悔しているのやろか(「轢きにげ」だけでなく、「引きずり」やから、もうシャバには出てこられへんやろ。
せんだみつおは、ぶつけた後、2,300メートルぐらい進んで止まったから、書類送検ですんだ。「氷河期」のままやけど)。
車のアクセルとブレーキは、2、30センチぐらいしか離れていないけど、どっちに足を置くかで人生は変わる。
ときどき、としよりが、ビルの上にある駐車場やコンビニ前で、アクセルとブレーキを踏みまちがえて、えらいことになっている。
どうしてまちがえるんやと思うけど、ぼくも経験がある。どこかで縦列駐車をして、後部座席の荷物を取ろうとしたんか、何かの拍子に足がブレーキから離れた。すると、Dのままやったから、車は、ずるずると動いた。「やばい」と、ブレーキを踏もうとしたんやけど、一瞬どっちか迷うた。前の車との距離がだいぶあったからよかったけど、危ないところやった(40年以上前、教習所で、右から、ABCと並んでいるとおぼえたけど、そんなん思いだしている暇はない。Cはクラッチや)。
車を運転するもんには、どっちがアクセルかブレーキかを考えへんのに、どっちやと考えるから、ドッカーンとなる。
車だけでなく、人生には、すべてアクセルとブレーキがある。
ぼくらは、どんなことにも、「やろか、やめとこか」と、心の中のアクセルやブレーキに足を乗せるのや。
最近、結婚するのは、「やっちゃった婚」が多いらしいな。まちごうた。「できちゃった婚」
や。最近の調査では3割近いらしいな(「やっちゃった婚」は、何割かしらんけど)。
それは、アクセルとブレーキをまちごうて、そのまま行ってもうたんか。それとも、「よし、直線コースになった」と、アクセルを全開したんか(他人のことはほっとけてか)。
まちごうてアクセルを踏んだ場合は、途中でブレーキを踏むこともあるし、50年ほど、アクセルの上にちょっとだけ足を置くこともある(アクセルを踏むより、ちょっと浮かしているほうが疲れる。「こむら返り」が起きることもあるしな。車の場合やけど)。
最近、結婚式場に火ぃをつけたやつがいたやろ。結婚しているのに、他の女と結婚式をあげるはめになったそうで、「どちらとも結婚していたかった」んやて。それなら、火ぃつけるなよ(心には、それぞれのことにアクセルとブレーキがあるけど、ダブルアクセルとはな)。
車の場合は、まわりをよう見て、アクセルとブレーキの操作をする(妙な動きをする車がいてへんか、茂みに速度計を見る警官が隠れてへんか、側道に白バイが待機してへんかなど。そればっかりか)。
人生のアクセルとブレーキもそうや。急に踏んだら、「てれこ」になるから、気持ちの用意はしとかんとあかん。
そのためには、気になることが「煮詰る」のがええ。「煮詰る」は、「最悪っ、どうしよう」ゆう状態の意味ではない。「考えに考えて、これ以上の結論はない」とゆうことや(忘年会の二次会は、スナックの「貸切り」ちゃう。「借切り」やで。「生き様」はまちがいや。「生き方」や。「死に様」とはゆうけど。今日は、これくらいにしとくわ)。
とにかく、人生のアクセルとブレーキは一瞬の判断で使う。
アメリカ史上最悪の大統領とゆわれているブッシュは、911テロに会うたとき、一瞬頭に浮かんだのは、イラクのフセイン大統領やったんやろな(ちがう顔を浮かんでも、その国におんなじようなことをしていたんとちがうか)。
この男は、アクセルしか踏まんから、アメリカ兵だけでなく、イラクの人間が何十万人も「轢きにげ」に会うた。
それ思うたら、ちょろちょろアクセル踏んでいるぼくらはかわいいもんやないか。無理せんといきまひょ。最近使うてへんでも、クラッチもあることやし。