勇気
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「勇気」
旨加棒 喰界(うまかぼう くうかい)じゃ。
寺にこもって、悟りを開いている間に、ネズミが出てきたそうじゃな。
そのネズミは、自分たちをモデルにしたミッキーマウスに人気があるのに、自分たちは不当に貶(おとし)められているのは理不尽だと主張しているらしい(わしも、孫娘にせがまれて、スカートをはいたネズミを、「ミッキーのメスをくれ」と言って、店員に笑われたことがある。ミニーとかいうらしい)。
テレビでは、白い犬がケータイのセールマンをしているが、「犬に負けるもんか」と、ハリウッドスターの渡辺謙が、別のケータイのCMに出ている。
どの世界でも、誰かが、「我が世の春」を謳歌していると、あれよあれよという間に無名の者が出てくるものじゃが、今日(きょうび)、人間以外からも出てくるようじゃな。
先日も、雪道で滑って転落した車の中で、飼い犬が、子供を一晩中抱いて暖めていたことがニュースになっていたが、人間も、うかうかしておれんぞ。
ネズミにも、「コマネズミのように働く」という言葉がある。しかも、「一休さん」でわかるように、寺とネズミは切っても切れない仲である。
しかし、わしは、ネズミが大嫌いである。
チュー吉が言うように、ネズミは、わずかなエサを取るぐらいで、エサがないからといって、仕返しをしたりしない。
また、そこらじゅうに糞をするが、それも、「ネズミがいる」という印になる。
そうそう目くじらを立てるほどのものではないが、それでも、わしは、ネズミが大嫌いである(「大」が、4つも5つもつくぐらい嫌いである。ギャルのようであるが)。
特に、体長以上にあるシッポが不気味である。生存のために、あれほどの長さになったのであろうが、相手に恐怖を与えるためではないかと思いたくなるのである。
昔、ネズミ恐怖症になって、電気コードがシッポに見えたりした。いつぞやは、足元にいるように思えて、走ってにげた。しかし、どこまでもついてくるので、気も狂わんばかりになった。ようやく、それが草履の紐が緩んだだけだとわかったが、それくらいネズミが嫌いなのである。
修行中でも、ネズミがガサゴソ音を立てると、「地獄に落ちろ」という罰当たりの言葉を吐いてしまう。いくら、お釈迦さんに説教されても、嫌いなものは嫌いなのじゃ。
みんなも、ネズミだけでなく、人間の中にも嫌いなものはいるじゃろ?
口には出さなくても、腹の中で、罰当たりな言葉を言っているのではないか(老若男女、「交通事故に会え」をよく使うようだ)。
吐き捨て言葉は、各自得意かつオリジナリティに富んでいるであろうが、自分の身近にいるもの、自分が当てにしているものに対する言葉は不得手なのではないか(特に自分の希望についてが)。
なぜなら、言葉というものは、諸刃の剣(もろはのつるぎ)」であることを、誰でも知っているからじゃろ。もし自分が傷ついたらと思うと、怖くて使えないのだ。
家族や親戚、知人などとの間での事件が増えているが、たった一言が言えないばかりに、ほんとの刃を使うのではないか。
ケータイだ、メールだ、ブログだ、ツイッターだと、どんどんしゃべる道具やサービスが発明されるが、たった一言が、まだ言えないのじゃな。
つまり、そんなものができても、役に立たないのかもしれない。
火事を知らせるときには、ケータイこそ使うが、そのためのものは使わないのと同じように。
しかし、刃は使わないと、「なまくら」なる。言葉もうまく使わないと、相手に伝わらないし、それゆえ、自分も痛い目にあう。
なに、むずかしいことはない。近所の人でも、同僚でも、ちゃんと声を出して挨拶をすればいいのだ。
最近は、それさえしない人がいるようだ。つまり、自分が無視されたらという恐れに打ちかとうという勇気がないのだ。
また、勇気があれば、理不尽に思うことに、自分なりの答を出していける。
わしも、自分の歯がゆさに毎日泣いているが、目医者は、ドライアイだと言う。これも、理不尽じゃ。