教える(3)
今日も、ムーズがやってきた~きみと漫才を~
「教える」(3)
大阪駅で、地下鉄谷町線東梅田を教えるのは、なかなかむずかしいけど、そんなんどうでもええわ。自分の子供などに、「ほんまの道」、人生について教えることについて考えよか。
「お父さん、人生オセーテ」なんかゆわれへんけど、なんかやらんとあかんような気がする。なんで、こんな「奥歯にキムチが挟まった」(発酵しとる!)ような気がするかとゆうたら、「父性の復権」ゆう本を読んだら、若いもんが、「社会性」(電車や街角でへたったり、化粧をするのが恥ずかしいと思うようなこと)が欠けているのは、父親がさばっているからやとゆうことや。しかも、これは、明治時代に遠因がある(これについては、「団塊の世代」で書くわ」。せやけど、「そもそも人間とは、人生とは・・・」とゆうのは、一人浮いてまうな。
ところが、最近こんなことがあった。次女が、遠くで仕事をすることになって、車がいるので教えた。
30年以上の間に、よう事故を起こしたけど、「『しらふ』では、一回も起こしてへん」ゆうのがぼくの自慢や(いつも飲んどったんかい)。今は、シルバーカードや、いや、ゴールドカードやで。そこで、4枚の紙に、教習所で教えへんことをびっしり書いて、実習をした。「急ブレーキのかけ方」、「覆面の見つけ方」、「始めての場所で検問を察知する方法」(実用的やろ?)など、微にいり、細をうかがった教習をして送りだした。
案の定、一人相撲の事故を起こしよった。エコノミーやったから、「自損」の補償をつけとらんかった。電話で、業者と話しをすると、「見積もり」を出す前に、修理をはじめとった。
「それ、どうゆうこっちゃ」と交渉した。菊水丸のように、「世の中、ジェニとコネだっせ」と教えるつもりはないけど、この過程で、次女は、「世間では、最初にボタンをかけちがうと、金と時間を浪費すること」、「隙あらば、つけこまれること」を学び、人を見る目を養っていくやろ。そして、どうするかわからんことほど辛いことはない(修理が終わるまで待つぐらいなんでもない)ゆうようなこともわかってくれるやろ。
ところで、交通事故ほど「人間」が出るもんはないな。加害者は、そのとき謝っても、次の日は、こっちは悪くなかったとゆう。自分を守るためには、必死になるのは、当然なんやろか。ぼくの知り合いが、ハワイで追突されたとき、相手は、絶対謝らへんかった(外国は、そうらしい。仕方なしにレンタカーの保険使うゆうたら、アイム・ソーリーと来たゆうて笑ってた。
次女の手前、「すぐ引きあげるぞ」とゆうような手は使わんかったけど、請求額の半額で収めた。部品が新品になったこと、世間の勉強代や思うことで納得した。すぐに「自損」もつけた。
快適や利便とゆうもんは、危険であり、高くつくことが、親子とも、あらためてわかった。
人生や社会は、小さいことでも教えられるな。何より、自分の父親が頼りになる男やわかってくれたやろか。「お前も、こんな男見つけろ」てか。