バナナ(2)

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「バナナ」(2)
うそかほんまか知らんけど、陣内智則が、カラオケで歌うと、最後に感極まって「紀香ぁ~」と叫ぶと週刊誌に書いてあったけど、こうなったのは有頂天になったからやろか。
これも週刊誌の見出しやけど、「おっぱいを揉むことを禁止されとんのや」とゆうことやったから、格差夫婦でも、体が商売道具の女優を嫁にもうたツケが来たんやな。
その結果、「おまえは百まで、わしゃ九十九まで」と行かず(「わしゃ」は妻のことやで)、嫁はんやのうて、自分がバナナのようにニョキニョキ出ていった(当初は、住むところがなくて、「ホームレス中学生」の田村のところに転がりこんだそうや。
そんなんどうでもええけど、ぼくらは、この世に、バナナのようにニョキニョキと来たわけやから、出ていくときもそうありたいけど、そうは問屋が卸さん。
前回はアルツハイマーや脳梗塞になったらどうするんやとゆう話やったな。
大島渚や野坂昭如のように一つのもんに秀でているから嫁はんが一生懸命介護してくれるのかとゆうことやったけど(それはどうかしらんけど)、今からでもええから(いや、さんざん悪事をしたほうが、小さなことでも変ったなあと思うてくれるかもしれん)、嫁はんが、「まあしゃあないか」としぶしぶでも納得してくれるもんを、一つでもしいやとゆうた(「それは何か」は、自分の行状と嫁はんの性格から自分で考え。女遊びをやめるとかな)。
それから、もう一つせんとあかんのは、自分の体のことや。
顔はその人の人生を刻むとゆうやろ。キムタクは、「ぶっちゃけ自分の顔にはあきたよ」とゆうているらしいけど、ぼくらみたいに、自分の顔にあきれた結果、あきらめたもんには辛い歴史が顔に刻まれているのやろか(顔そのものはおもろいから、そうは見えへんやろけど。くっー)。
救いは、顔がよくても、病気にならへん保証はないとゆうことや。
この際、「顔なんか裏表がわかればよろしい」ゆう慰めの言葉に甘えることや(ただし、メガネが落ちんぐらいの鼻の高さはほしいが)。
そして、顔とおなじぐらい人生がわかるのは尻の形や。若いとき、女の子に、「活気のないお尻ですね」とゆわれたことがある。あれは屈辱的やった。顔はどうしようもないけれど、尻は何とかせんとあかんと発奮して、毎日10キロ走って、マラソンも平気で走れるようになった(4時間を切ったぐらいやけど)。
カルーセル麻紀は、ケツカッチンの和泉修(しゅう)が、関西たら、全国たらで一番ええ尻の形をしているとゆうている。
ぼくも、60ではええほうやと自負していたけど、この前久しぶりにテレビに出ていた修の尻を見ると、これは勝てんと思うた。45を過ぎているのに、ほんまにええ尻をしていた。形といい、角度といい、絶品や。さすが男を見るベテランはちがう。
おまえもオカマかとゆわれそうやけど、尻の形は、今の生活を反映しているとゆうのがぼくの持論や(清水圭に捨てられても、勉強にもスポーツにもがんばる修のことはまたゆうこともあるやろ)。
おばちゃんの尻を見てみ。つきたての餅みたいに垂れさがっているのがいるやろ(最近は若い男でもいる)。
腹が出ているのは不問にするけど、尻の形は正直やで。
健全な精神は健全な肉体に宿る、や。体を鍛えると頭も冴えるとゆうわけや。
施設に入居しても、ヘルパーに、「ねーちゃん、わしのDNA見せたろか」とからかったつもりでも、「どこの(D)のノータリン(N)がそんなしょうもないことをゆうてるんや。そんなら、あそこ(A)をちょん切ったろかのDNAですか」と切りかえされても、ぐうの音も出んで。おもろいことゆうときは、次のことを考えときや。
老人よ、尻を高くあげよ、や。
嫁はんが先に倒れたらどうするやてか。介護をがんばったらええがな。世話になったんやろ。
腰を鍛えたのが役に立つ(せやけど、飲み会で早う酔うたほうが勝ちやゆうけど、なんか似てるな)。
このテーマはあきたのでやめようと思うたけど、もう一つしいやとゆうのが残ってもうた。
ごめん、もう一回。

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