田中君をさがして(6)
どちらにしろ、パパも、ぼくに、子どものときのことを言って、なんだかうれしそうだった。
こんなことでも、パパの役に立ったかもしれない。
あるとき、親戚が集まったとき、おじさんが、酔っ払って、パパに向かって、「お前は、小学生になっても、よく寝言を言っていたなあ。
いつか、汽車が、ボッ、ボッと叫んで、こっちに向かってくる!と、布団(ふとん)から飛び起きて、家から逃げ出したことがあって、みんなで追いかけたよ。
それから、木の枝に、雀の巣を見つけて、井戸の蓋(ふた)に乗ったとき、それが割れて、そのまま井戸の中にまっさかさま。あのときのことをおぼえているかい」
「おじさん、もういいですよ」
パパは、顔を赤くして、咳をしていた。
大人になるということは、誰にも言いたくないこと、恥ずかしいことが増えていくということかもしれない。
パパは、これからも、自分の経験をいろいろ話すといっている。
きっかけがあったから、ぼくらは、いろんな話をした。男の子は、大きくなると、父親とあまり話をしなくなるらしい。パパの話では、父と息子は、競争相手になる宿命があると言っていた。
しかし、父親は、男の子に、いろいろ話をしたいときがあるらしい。
だから、親として、大人として、ちょっと恥ずかしいことや苦しいことは話しにくいが、子供が、聞けばいいのだ。子供ができる最初の仕事だと思う。
ぼくらにとっても、自分が、恥ずかしいときや苦しいときがあって、どうしたらいいのかわからなくなれば、親がどうしてきたかは、ものすごく参考になるだろう。
ママは、花や星の名前から、パパは、言葉から生きていくことを教えてくれているようだ。
パパも、おじいちゃんとは、あまりしゃべらなかったが、おじいちゃんは、何かのときに、若いころのことや、兵隊の経験を、ぽつぽつ話した。背が低くて、悩んだことや、勉強も運動もできたのに、進学できなかったことこと(先生が、親に頼んでくれたにもかかわらず)、戦争で、どんなことをしたかを聞いて、おじいちゃんとの距離が縮(ちぢ)まったと、パパは思った。パパと、おじいちゃんとは、よく似ていたのだ。
それらについては、ぼくも、少し聞いているが、パパが、しゃべったときに書くことにする。
なぜなら、ぼくの文章力では、パパの言いたいことを十分伝えられない。そんなことになれば、この話は、台無しになってしまうので、そのときの状況を説明しながら、
状況に応援してもらいながら、なるべく、パパが言ったままを書くつもりだ。
ところで、なぜ、ぼくが、美奈子のことを、異常なほど見ていたのかというと、
パパは、今度の冒険で、「見るべきほどのことを見つ」という言葉を合言葉にしようと言ったからだ。
それは、どんな意味なのと、ぼくは尋ねた。
見なければならないものを、みんな見ることという意味だが、
まず見ることを意識する練習すべきだという返事なので、ぼくは、ますますわからなくなった。
「見つ」という言葉は、「見る」の古い言い方らしいが、ぼくが、毎日、何も感じることなしに、信号を見て、道を渡ったり、教科書を見て、勉強をしているのと、
ちがうのだろか。
よくわからないので、目に焼きつけることだろうと思い、美奈子や友だちを、じっと見ていたのだが。
800年以上前、日本は、まだ、一つの国になっていなくて、各地で、それぞれの大将が、領地の取り合いをしている時代だった。
だから、あちこちであった戦いは、どちらが悪で、どちらが善かは関係なく、とにかく、相手に勝って、領地や部下を増やせばよかったのだ。
だから、一家では無理で、一族という親戚が集まって、力を合わせて戦いをしていた。
その中でも、平家と源氏の戦いは有名だ。
源頼朝や義経は、まだ小さいというので、昔、平家から、命を助けられた。そのことが、平家の命取りになった。なぜなら、二人は、平家を倒すという一族の目的を持って、大きくなったのだ。
いよいよ、源氏が、平家を倒すことを決め、日本のあちこちで戦いがあった。
そして、「壇ノ浦の合戦」が最後の戦いになり、平家は、殺されたり、逃げたりした。
平家の女の人たちは、「海の底に、都がある」と言って、海に沈んでいった。
そして、平家は滅亡した。
平清盛の四男の平知盛(とももり)という大将も、まだ30歳過ぎだったらしいが、これ以上戦えないとわかると、船を掃除して、「見るべきほどのことを見つ。
あとは、自害せん」と、海に飛び込んだのだ。
「平家にあらずんば、人にあらず」と思って生きてきた人たちだから、平家が、滅びると、この世の終わりと考えたのだろう。
そして、源頼朝を大将とする源氏が天下を取ったのだ。
また、「見るべきほどのことを見つ」には、もっと深い意味があるようだが、詳しいことは、パパが語ってくれる。
もちろん、「見る」ということは、聞くこと、感じることも含んでいるのだ。つまり、生きていくための大事なことを、代表している言葉だ。
それから、パパは、「見ること」と、「見えること」とは全くちがう。