田中君をさがして(3)
パパの違うところは、人とうまくいったときにも、咳が出ると言った。たとえば、道を尋ねられて、うまく説明できて、その人が、お礼を言って立ち去ると、ものすごくうれしくなって、咳が出るんだって。それは、ぼくには、よく分からないが。
また、こんなことも教えてくれた。江戸時代には、トイレのことを、「雪隠」(せっちん)といっていたが、鍵なんかかけなかった。誰かが、来る気配があると、ゴホン、ゴホンとやるのだ。
そうすると、相手は、誰か入っていることがわかる。だから、昔は、トイレでの咳を、「雪隠のかぎ」と言っていたそうだ。
言葉は、自分の心を伝えるものだから、「言霊(ことだま)」と言うそうだ。それじゃ、咳にも、言霊があるということだろうか。
また、パパは、こんなことも言っている。「人は、他の人から受けた、ほんのささいな言葉や行為で、ものすごく喜んだり、悲しんだりすることもある。もちろん、自分が、他の人に、そうすることもある。
また、人の好き嫌いなんてものも、最初は、はしの持ち方や、歩き方など、ほんとに小さなことで決まるのだ。だから、なんでも、小さいことだと思って、見逃したり、おろそかにしてはいけない」。
しかし、そのパパが、そんな大事な「小さなこと」を、ゴホン、ゴホンと、口から出している。小さいことは隠せないのだろう。
パパは、「悠太と、10日ほど、北海道か、いや九州か四国へ、旅行する」と、ママに言った。
ママは、「どうして、場所が決まらないのよ」と尋ねたけれど、パパは、「生きることは、選ぶということだから、目的地を決めないで、旅行することは、とても大事なんだ、悠太にも、ぼくにも」と言ったらしい。
そのとき、「外国には行かないけれど」とも付け加えた。
調子に乗ると、余計なことを言うのも、パパの癖だ。ママが、何か感づいていないか心配だ。
しかし、ぼくも、緊張してきた。身震いがしてきた。
枕元の時計を見た。6時28分。すでに準備も終わっている。
8時ごろに起きていいので、もう少しこのままでいられる。
今日から、どんな日が始まるのだろう。
パパがいるから安心だけど、ときどき、パパは、困ると、不安そうに、ぼくの眼を見ることがある。
ぼくより、小さくなったように思える。とにかく二人でやると、何とかなると思うことだ。
今日は、ものすごく晴れていることがわかった。
まだ、ベッドにいるのに、どうしてわかったかと言えば、木の雨戸に、直径3センチぐらいの穴があいていて、光の線が、まっすぐ、ぼくの足元に、差し込んでいたからだ。
それは、パパがくれたパンフレットを穴のあくほど見たのだが、それに載っていた大きな客船の纜綱(ともづな)のように見えた。
いよいよだと考えていると、美奈子の顔が浮かんだ。美奈子のことを考えると、何か狭いところに閉じ込められたような気がする。
ママの手術のときも、そうだった。パパの咳と同じように、ぼくも、緊張すると、何か狭い部屋に閉じ込められたような気がする。
どちらも、よく似た親子と言うべきか。
終業式の日には、美奈子をよく見た。この頃、話をしてくれないので、さりげなく見ていた。
終業式ということで、少し派手な服装をしていた。黄色と青のセーターとピンクのスカートだった。
教室に差し込む光で、輝いて見えた。教室ですわっていても、見たくなった。
そこで、斜めうしろにすわっている美奈子を、下敷きを鏡にして見た。しかし、縦や横に伸びて映った。いつもなら、それが、おもしろいのだが、今日は、それで遊ぶ余裕がなかった。
ぼくは、後ろの田村に話しかけるようにして、美奈子を見た。
美奈子との「めぐりあわせ」は悪いと思った。前もけんかしたときは、ママが手術するときだった。
あのときは、美奈子のおばさんに電話を取り次いでもらって、美奈子と話をした。ママが手術をすると言うと、けんかしていることは忘れて、おばさんとすぐに病院に来てくれた。
そのときのけんかの原因はなんだったのだろう。親友の圭子の悪口を言ったと、美奈子は、ぼくをなじったが、どんなことを言ったか忘れてしまった。
美奈子は、「女の子のことを分かっていないわね。もう一度言うと絶好するからね」と言ったけど、ほんとに、ママのことが心配で、よく覚えていないんだ。
今日からのことは、もし、けんかしていなくも、言えないんだ。
パパから、「これに関しては、カンコーレーをひくから」と言われている。「カンコーレー?」。あとで調べると、「緘口令」と書くのだ。
「この計画を、だれにも言っちゃだめだ、ママやのぞみだけでなく、友達にもね。みんなに分かってしまうと、計画がつぶれてしまう」と言った。
「美奈子ちゃんには、あとから手紙を出したらいいわけだから。もちろん、ママとのぞみには、パパが手紙を置いていくよ」。
だから、美奈子とは、しばらく会えなくなるので、ぼくの方から、お正月には、神社に行かないかと誘ったのだけど、まだ、機嫌は直っていない。親戚の人がくるからとのことだ。ほんとに頑固だ。