のほほん丸の冒険

      2021/08/15

のほほん丸の冒険
第1章1
どこかの駅に入ると、パパはぼくを抱いて人ごみの中を進んでいった。
しばらく行くと、ぼくを降ろしてから、「ほら、向こうでおまえを見ているのがママだ。走るんだ」と言った。
ぼくは驚いてそっちを見た。確かに50メートルぐらい先で身を少しかがめぼぼくを笑顔で見ている女の人がいた。知らない女の人だった。
しかし、ぼくが夢にまで見ていたママがあの人かと思うと、なんだか急に恥ずかしくなって、その場に突っ立ったままだった。
「どうしたんだ。ママに会いたかったんだろ?」パパはそう言うと、ぼくの背中をちょっと押した。
すると、ぼくは、太陽の引力から外れた地球のように、にこにこ笑っている女の人のほうに走りだした。
女の人はぼくが走ってくるのをじっと見ているだけだったが、顔の表情がどんどん変わっていくのが分かった。ようやく女の人のそばに行くと女の人はぼくを抱きあげ、ぼくの名前を呼んだ。
ぼくは、「うん」と答えると、ぎゅっと抱きしめて、声を上げずに泣いた。
顔を見ると涙でくしゃくしゃになっていた。しかし、その後どうなったかはまったくおぼえていない。これは3才ぐらいのことで、自分にとって一番古い記憶だ。
そうそう。その日家を出るとき、いつもの靴を履こうとすると、パパはママが送ってくれた白いサンダルを履くように言ったことも覚えている。
どうしても白いサンダルを履かせたかったのは、ママに見せるためだったかもしれない。
しかし、その女の人がほんとにママだったかはわからないのだ。それまでママの顔を知らなかったし、10才になった今でもママの写真を見たことがないからだ。
パパにも聞くことができない。パパはその後外国に行ったままで日本に帰ってこない。その間、ぼくはあちこちたらいまわしされてきたのだ(もっともぼくのほうに非があるからだが)。
ぼくはママの顔を思い出そうとした。そのとき、「ぼく!」という声が聞こえた。
新宿駅までぼくを迎えに来た叔父さんかと思い、居眠りからすぐに目を覚ますとぼくの顔のすぐそばに女の人の顔があった。
「ぼく、お願い。これを30分ほど持っていてくれない。すぐに取りに来るから」
それは茶色い小さなバッグだった。ぼくは女の人の顔とバックを見た。
「これに大事なものが入っているの。ちょっと用事ができたので預かってくれる?」と早口で言った。
「いいですよ。親戚の叔父さんと待ち合わせしているのは3時ですから、大丈夫です」
「ありがとう。ここにいてね。それと、絶対他の人には渡さないで。お願い」と念を押した。
「わかりました」ぼくが答えると、女の人はコンコースを走っていった。
ぼくは時間を確認するために改札口のほうに行った。2時30分だった。ぼくはここに着いたのは、2時10分だったから、ここについてすぐに居眠りをしたようだ。駅の雑踏を見ていると、昔のことを思い出し、その喧騒が子守唄になってしまったようだ。
新潟からくる叔父さんはほんとはパパの叔父さんであって、ぼくのおじさんではないが、ぼくの後見人みたいなことをしてくれている。
おじさんは田舎で一人暮らししているようで、他にぼくを迎えにくる人間がいないので、仕方なくぼくを迎えに来たのだ。昔新宿に住んでいたので、新宿まで行くという連絡があったのだ。本来施設まで迎えに行かなくてはならないが、おじさんは断った。施設としては早くぼくを厄介払いしたかったので、それを了承したらしい。
とにかく、荷物を預かったからにはもう居眠りはできない。ぼくはリュックサックを背負っていたが、預かったカバンは尻に敷いていた。手に持っていたらひったくかれるかもしれないからだ。ぼくは雑踏を見ていた。
すると、左から3人の男が走ってきた。そして、「坊主。今女がここへ来ただろう」と大きな声で言った。
「はい来ました。『南口はどこか』と聞いたので、『そちらです』と教えました」と言った。
3人は女の人と反対のほうへ走っていった。ぼくはどこかへ行きたかったが仕方がない。30分までは後10分ぐらいだろう。とにかくこのバッグ返せば仕事は終わる。後は初めて会う叔父さんからパパやママの情報を聞くだけだ。ただし、新潟まで一緒に帰りたくない。
「おい、坊主。ほんとにこっちに行ったのか」顔を上げると、さっきの男3人がぼくを見ていた。
「はい。まちがいないです。ホテルのほうに行くと言っていたような気がします」
「ほんとか」一人の男が疑わしそうに聞いた。
「ほんとです」ぼくはすぐに答えた。
別の男が、「おまえのリュックを見せろ」と怖い顔で言った。
ぼくは、「わかりました」と答えながら、バッグを持って逃げた。

のほほん丸の冒険
第1章2
3人の男は、「逃げたぞ」、「捕まえろ」とあわてて叫んだ。かなり離れたはずだが、このままではすぐに捕まる。ぼくはどこに逃げたらいいか前を見た。向こうから小学生の集団が来る。何百人もいそうだ。そこに紛れ込めば逃げられるかもしれない。集団は50メートル先を右に曲がるようだ。しかも、そこは細い通路になっている。
よし。ぼくは集団の最後尾まで走った。そこにいた教師の隙を見て、集団の中に入った。ぼくを見て、誰だという顔をする子供がいたが、かまわず集団の中ほどまで進んだ。
集団は細い通路に入った。通路に沿って工事用のテントがかかっていた。
男たちは走りにくいと思ったが、通路が狭いので動きが遅い。これでは追いつかれてしまうかもしれない。
案の定、「あいつだ!」という声が聞こえた。ぼくは声のほうを振り向かずに真っすぐ前を見て歩いた。
後のほうでざわつく声がした。教師もそれに気づいたのか、笛を鳴らして、「止まれ!」と叫んでいた。何も知らない教師は、集団に怒った男たちを先に行かそうとしているのか。
これはまずい。ぼくは徐々に左に寄った。一か八かテントの中に入った。テントの中は板塀が続いていた。これは誤算だ。
前に進むべきか。戻るべきか。一瞬迷ったが、戻ることにした。あの女の人が戻っているかもしれないからだ。
やつらはぼくがテントの中に入ったことを知ったようだ。あちこちテントが開くが、集団の子供たちもいるので確認しづらいようだ。
ぼくは板塀の中に入れないか走りながら必死で探した。すると、板塀に出入り口のようになっているのを見つけた。そこに力を込めて押した。開いた!
工事中でものすごい音がする。あちこちで多くの作業員が働いている。ぼくを見つけた一人が、「ここへ入ったちゃいかん。すぐに出なさい」と大きな声で言った。
ぼくは、「人に追われているんです。助けてください」と答えた。その声に大勢の作業員が手を止めてぼくを見た。
近くにいた作業員が、「何かあったのか?」と聞いた。「男がぼくのカバンを取ろうと追いかけてきています」と答えたが、ぼくが泥棒と思われているかもしれないとすぐ思った。
作業員が、「それじゃ、駅員さんに言いなさい」と言ったとき、「いた!」という声とともに、男3人が入ってきた。
ぼくは、道具や板などの間を縫って逃げた。男たちも、「待て!」と追いかけてきたが、何かひっかけて転んだものがいるのか、「痛たた!」大きな声が聞こえた。
「危険です」、「出てください」作業員も声を上げている。
ぼくは奥に逃げた。板のようなものが積まれていたが逃げ場がない。ちょうどそのとき、壁の一部が開いた。そこもドアになっていたのか。
ぼくは電光石火の勢いでドアの中に入ったが、体が宙に浮いた。暗くて見えなかったが、階段になっていたのだ。すぐに宙から落ちたが、そのまま階段を転げ落ちた。体が止まると無我夢中で立った。目の前は行きどまりだったが、ノブのようなものを見つけると、それを回した。外に出た。
外に出ると光と音楽が溢れていた。人もゆっくり歩いている。両側には店が並んでいる。アーケードのようだ。そこを走ったが、体が徐々に痛くなってきた。もう歩けないほどだ。
どこかにドアがないか見ながら走った。エレベータの横にドアがあるのを見つけた。
開けると通路があった。「ここなら大丈夫だ。逃げ切れる」と思った。
誰にいない通路を進んだ。途中年輩の男の人が部屋から出てきた。ぼくに気づくと、「ぼく。どうしたんだ?」と大きな声で聞いた。
ぼくは、「集合時間に遅れてしまったので、みんなに追いつこうとしたのですが、迷ってしまって」と泣きそうな顔で答えた。
「ほんとか。それはたいへんだ」
「そうなんです。急におなかが痛くなって、『トイレに行ってくるから、先生にそう言っておいて』と友だちに言って走っていきました。駅員さんに事情を話して特別に改札口から入れてもらいました。
終って改札口を探したのですが、迷ってしまいました。みんな待っていてくれたらいいのですが」
「駅のどこにいたのかわかるか」
「出口を出て、集合していたときです。観光バスに乗るところでした」
「バスに乗るのか。それなら西口だな」
「そうです。そうです。西口です。そう言っていました」
「それじゃ、ぼくが一緒に行くよ」
「ありがとうございます。みんなに迷惑かけちゃって」
「新宿駅はギネスブックにも載っているぐらい乗降客が多い駅なんだ。駅も複雑だからね。おじさんもぼっとしているとまちがうからね」
ぼくは、頭の中で、西口か。ぼくが待っていたのは南口だったはずだ。西口から南口まで行くのはどうしたらいいのだろうか。あの女の人が待っていてくれたらいいがと考えた。
「とにかく急ごう」男の人はそう言うと、速足で歩きだした。ぼくも小走りでついていった。

のほほん丸の冒険
第1章3
両側に事務所が並んでいる通路を突き当りまで行き、左の階段を下りてまたアーケードに出た。ぼくは男がいないか後ろを見ながら、男の人についていった。
男の人も話好きのようだが、ぼくを早くみんなに合わせなければならないと考えたのか一言も言わずに走るように急いだ。
そからも階段を上がったり下がったりしてようやく駅の外に出た。「西口に着いたよ。どこにいるか覚えているかい」とぼくを振り返って聞いた。顔は汗だらけだ。
ぼくはそこから見える広い場所を指さして、「あそこだったと想います」と言った。
「誰もいないな」男の人は独り言につぶやくと、「ちょっと聞いてくるよ。ここから動かないでくれ。小学校の名前を教えてくれないか」と聞いた。
ぼくは、おじさんやパパの出身地である長野県の小学校名を適当に答えた。
「長野県松本市の松本第三小学校だね」男の人は確認すると、駅の中に急いで入った。
ぼくは用心のために数軒並んでいるレストランの間に行った。そこは少し引っ込んでいて、しかも、ショーウインドウの横ガラスから通る人が見える。そこから左右を見ていて、もし男が来たら店に逃げ込めばいい。
5分ほどすると男の人が戻ってきてぼくを探している。あたりを見てからそちらに行った。
「今小学生が行方不明になったという届けが出ていないか聞いてきたんだ。でも、出ていなかったな。どうしたんだろう?」
「多分今までここにいたけど、ぼくが戻らないので、他の生徒はバス乗り場に行き、残った先生が今探しはじめたばかりだと思います」
「そうか。それならわかる。どうしようか?」
「すぐにバス乗り場に行きます。そうしたら、バス乗り場にいる先生が、ぼくを探している先生に連絡すると思います」
「なるほど。きみは冷静だ。すぐにバス乗場に行くか。一緒に行くよ」
男の人は、そう言いながらも連れていくかどうか迷っていりようだったので、
「いえ。ここから近いと聞いています。もう大丈夫です。ありがとうございました」
と言った。
「でも、10分はかかるし、ややこしいよ」
「大丈夫です。迷ったら聞きます」
「工学院大学の前が観光バスの乗り場になっているんだ」
「工学院大学ですね。わかりました」
「ここを渡って京王プラザホテルを聞くんだ。そこに工学院大学がある」
ぼくはもう一度礼を言って、道を渡った。男の人がぼくの後ろ姿を見送ってくれているのがわかったのでバス乗り場のほうに急いだ。それから曲がり角から駅のほうを見ると、男の人はいなくなっていた。
すぐに西口に戻ることにした。男の人と別れた場所に戻り、人に南口を聞いて急いだ。
時計を見るとバッグを預かってから2時間近くたっていた。大事なものなら、あの付近にいるだろう。もちろん男たちに見つからないようにして。とにかくあの女の人にバッグを返せばぼくの仕事は終わる。
ようやく南口に着いた。幸い大勢の乗客が行き来しているからその中に紛れ込める。
ぼくは改札口まで行き、また戻る。それらを数回繰り返したが。女の人はいない。
顔をあまり覚えていないが、ママに似た声だった気がする。もっともママの顔も覚えていない。
これからどうしたらいいのだろう。おじさんが迎えに来てくれただろうが、おじさんはぼくと会えなくても気にはしない。どうせ気が変わってどこかに行ったのだろうと考えて、帰ったはずだ。
おじさんはほんとはパパのおじさんだが、若いころから好き放題に動いて、約束なんか守ったためしがないとパパは言っていた。そのパパも研究者が今どこの国いるか分からない。その血統を受けついでいるぼくが何をしてもみんな驚かないだろう。その時、目の端に何かが映った。ぼくはそれとなく見た。男がきょろきょろしている。男たちの一人だ。
ぼくは、改札口を出る大勢の大人の間に交じって南口の外に出た。
そして、目の前の道を見た。歩行者信号が点滅している。ぼくは急いで道を渡った。
危なかった!ぼくは駅のほうをちらっと見た。横断歩道で待っている人の中にさっきの男がいるようだ。またか!ぼくは体の力が抜けそうになったが捕まるわけにはいかない。
まだかなり離れているが、あいつが仲間に電話するはずだ。早く逃げなければならない。ぼくはとりあえず駅から離れようと決めた。

のほほん丸の冒険
第1章4
新宿駅のほうを振り返って、今見えている形を覚えた。東西南北がわからないし、また駅に戻らなければならないので、この方法が確実だ。それから、駅を背にして、まっすぐ進んだ。
10分以上たったので、もう大丈夫だろうと思って少し歩いた。すると、ものすごくおなかがすいていることが分かったので、コンビニでおにぎりとお茶を買った。
近くに小さな公園があったので、中に入った。子供連れが数組いたが静かだ。
あたりを見てから、木の陰のベンチで食べた。少し落ち着いてきたので、少し考えをまとめることにした。
女の人にバッグを預かってと頼まれたのは、ママの夢を見ていた時だった。女の人の声が聞こえたとき、ママだ!と思って目を開けた。
しかし、目を開けると、顔が引きつった30才ぐらいの女の人が目の前にいた。
「ぼうや、ごめん。すぐに戻ってくるからこれを持っていて。絶対人に渡さないで」と言った。突然のことで返事をしないうちに女の人とは走っていった。それで、バッグを隠すために、背中のほうにおいた。トイレでも行ったのかと待っていると、3人の男が走ってきたのだ。それから、逃げる羽目になった。
こんなことにならなかったら、今頃どうなっていただろう?おじさん、パパのおじさんだが、二人で電車に乗っておじさんの家に向かっていたはずだ。
しかし、おじさんは駅まで来ただろうか。パパが言っていたけど、おじさんは若いころから突然家に帰ってこないことがよくあったそうだ。それも、何か月も音信不通だった。それが何回もあるので、家族はほっておいたそうだ。
パパは、「おまえもそうだな」と笑っていたが、パパもそうだ。実際今もどこにいるか分からない。ヨーロッパのどこかの国と聞いているが、連絡もない。
確かに、ぼくもすぐどこかに行きたくなるが、それはどこかに閉じ込められたからだ。
ママは入院していたらしいがどこに入院していたかもしれないし、見舞いに連れていかれたこともない。
パパもいなくなるので、パパの友だちの友だちの家とか、知らない家とか、施設に預けられた。
窮屈な生活をしていると、体がだんだん動かなくなってきたような気がして、動ける間にどこかへ行こうと思うのだ。
そして、海や山で寝泊まりしていると、誰かが世話をしてくれた。そういう人は、警察などに連絡せずに自分の子供のように扱ってくれた。
しかし、おせっかいな人に当たると、大げさなことになってしまう。「おまえの行動は自分勝手だ。邸宅やホテルのような施設で暮らせるのは恵まれている。何回もこんなことしていいと思っているのか。考えを改めろ」と警察で何度も怒られた。
しかし、今はそんなことを思いだしている暇はない。おじさんは、新宿駅でぼくと出会えなかったといって、警察や今日の朝までいた施設に連絡するような人ではないから、早くバックを返すことだけを考えたらいいのだ。
一番早いのは交番に落とし物として届けることだが、あいつらが、バッグを落としたと言ってすでに交番に行っているかもしれない。もちろん、交番で自分のことが聞かれるのも心配だが。
女の人は、「待っていて。必ず来るから」と言ったのだから、そうしなければならない。
ぼくは立ち上がって公園の中を歩いた。そして、大通りに出て、また先に進むことにした。コンビニで時計を見た。新宿駅を出てから1時間たっている。
一度駅に戻ろうかと思って、どこかの道を左に行くことにした。しかし、そのまま歩いていると、大きな公園が見えた。その公園を越してから、次の道を左に行くと決めた。
「あっ、あそこにいる!」と言う声が聞こえた。振り返ると三人の男が走ってくる。あいつらだ。ぼくはすぐに公園の中に逃げ込んだ。駅から離れたのにどうして見つかるのか。泣きそうになりながら走った。
後ろから走ってくる音が聞こえる。ぼくはでたらめに走ってやつらをまこうちした。
すると、「おい。坊主、どうした?」と言う声が聞こえた。ベンチにいる男だ。
「追われています」と走りながら答えた。
「そうか。こっちへ来い」男は立ち上がってぼくに言った。ぼくは、「はい」と答えた。男は走り出したので、ついていった。
しばらく走ると、青いビニールテントが見えた。「こっちだ!」若い男は叫んで、ビニールテントに向かった。
ぼくは男を見た。「大丈夫だ。早く入れ」と叫んだ。そしてビニールをめくってぼくを押し込んだ。

のほほん丸の冒険
第1章5
ぼくは何かにけつまずいて倒れこんだ。「坊主。こっちへ来い」というが聞こえたので、頭を上げると奥で白いひげを伸ばしたおじいさんがすわっていた。
言われるままにそちらに行くと、おじいさんは自分が使っていた毛布のようなものを広げて、「入れ!」と言った。
外で何か叫び声がしている。ぼくは思わず頭から飛びこんだ。
「誰じゃ。おまえは」とおじいさんが怒鳴った。その声でぼくの体が震えるほどだった。
「子供を探しているんだ」男の声が聞こえる。「ここにはおりゃせん。おまえは知らんのか」誰かに言っている。
「ベンチにすわっていたとき、目の目を走っていきました。そう言っているのに信じないんですよ」ぼくをテントに押し込んだ男の声だ。
「早く行かないと見失うぞ」おじいさんが言うと、男は出て言ったようだ。
しばらく静かになった。ほっとして息を吸い込んだ。すると、ものすごいにおいが鼻に着いた。思わず咳き込むところだった。手で口を押えて我慢した。
ようやく、「坊主。出てこい」という声とともに、毛布が払いのけられた。
ぼくは咳き込んでから、「ありがとうございました」と礼を言った。
「何があったのじゃ?あの男から何か盗んだか?」おじいさんはそう言って、ぼくのリュックサックとバッグを見た。
「そんなことはしません」と言ってから、今までのことを話した。
出入り口を背に、おじいさんに話していたのでわからなかったが、話が終わって振り返ると、5、6人の男がすわっていた。においには徐々に慣れてきたが、ときどき違うにおいがすることがあった。多分、そのとき人が入ってきたときだろう。
ちらっと見ただけだったが、若い男も、かなり年を取った男もいた。みんな無精ひげとぼさぼさの髪の毛だった。
おじいさんや男たちの様子を考えると、ホームレスと言われている人たちに違いないと思った。
とりあえず早くここを出ようと思って立ち上がると、おじいさんは、「どこへ行くのじゃ?」と聞いた。
「新宿駅に戻って女の人にバッグを返そうと思います」と答えて、テントを出ようとした。
「それはやめたほうがいい。3人の男がいると言ったな。おまえが駅の近くにいることがわかったので、あいつらもまだうろうろしているじゃろ。つまり、おまえが女の人に会いたがっていることが分かったのじゃ。
それにしても、おまえが預かったバッグはなんじゃろ。その女の人が男から奪ったものか、女の人のものを男が奪おうとしているのかわからないが、よほど大事なものと見える」
「ぼくにはまったくわかりません」
「それなら、交番に届けたらどうじゃ。それで、おまえの責任は果たされたことになる。そうしなさい」おじいさんはそうぼくに説得した。
しかし、ぼくは、「いいえ。ぼくが自分の手で返します」と答えた。そして、「助けていただいてありがとうございました。それでは失礼します」と言ってテントを出ようとした。
「ちょっと待ちなさい」おじいさんは慌てて言った。「おまえの気持ちは分かった。それでは、若いものをつけてやろう」すると、男が全員立ち上がったようだ。
「5人も行くと目立つ。テツとリュウ。二人で行け」
「わかりました」テツと言われた男はぼくをこのテントに入れてくれた男だ。リュウは小柄な男だった。
3人で出かけようとすると、「待て。その恰好じゃ職質に会う。そこから、旅行者のような服を選べ」とおじいさんが言った。
二人がシャツとズボンを着替えたので、すぐに三人でテントを出た。

のほほん丸の冒険
第1章6
テツとリュウの二人はぼくの前と後ろに分かれてついてきてくれた。それはいいが、駅に向かう歩行者はとにかく速足なのであまりガードマンとして役に立たないのだ。
二人は急いで歩くことはないようなので、すぐに遅れる。それで、慌ててついてくるが、息切れをするので、また遅れるのだ。
とにかく何事もなく新宿駅に近づくことができた。ぼくは二人を待って、「これからどうしたらいいのですか」と二人に聞いた。
テツは、「おまえの近くにいるから、女の人を探せばいい」と言ってから、リュウに、「坊主が女の人を探してい間、おれたちは坊主に近づいくる男に気をつけるんだ」と指示を出した。
「来たらどうしますか」リュウは聞いた。
「すぐにリュックサックをひったくるから、後ろから羽交い絞めをしろ。三人いるということだから、後二人がおまえを攻撃したら、おれが三人を叩きのめす」テツは作戦を失明した。
そうだ。ぼくの私物や問題のバッグはおじいさんに預けてきたのだ。少し迷ったけど、あいつらに奪われることを思うと、それがいいと判断したのだった。そして、女の人と会えば、テントまで来てもらえばすむことだ。
「坊主。それじゃ、駅に入れ」作戦は開始された。
「ありがとうございます。それじゃ、お願いします」ぼくはそう言って、まず一人で入っていった。
相変わらず大勢の人が行き交っていた。あちこち見ていて、何度もぶつかりそうになった。
ぼくが居眠りをしていた場所をそれちなく見たが、女の人も男たちもいない。
これじゃ、いつまでたっても状況が変わらない。そこで、わざとその場所に立ってみようと思った。女の人もぼくを見つけやすいし、男たちもそうだ。
もし女の人だけがぼくを見つけたら話は早い。また男だけでも、両方でも二人に任せたらいいのだ。どちらにしろ、もうあれほど逃げつづけることはないのだ。
ぼくはテツとリュウをさりげなく見てからそこへ行った。そして、立ったまま人のう往来を見た。
二人も、誰かを待っているかのように、時計を見たりあちこち探したりと演技をはじめた。
ぼくはじっと立っていた。しかし、構内はさらに人であふれてきたが、何事も起こらない。
気がつけばもう午後8時近かった。もう1時間過ぎたなと思っていると、テツが近づいてきて、「坊主、どうする?」と聞いてきた。
「誰も来ませんね。ぼくが待っていますから、お休みください」と答えた。
「そんなことを言っているのじゃない。これだけ来ないのなら、今日はいったん引き上げたらどうかということなんだ」
「そうですね。それがいいかもわかりません」」
「これからおまえはどうするのだ。家には誰もいないと言っていたな」
「そうです」
「今晩はどこで寝るんだ」
「ぼくの荷物と預かっているバッグを返してもらってどこか公園で寝ます」
「ホテルは?」
「そうしたいのですが、子供一人は断られますから」
「それなら、じいさんのテントはどうか」
「ありがたいですが、迷惑ではないですか」
「そんなことはない。じいさんは子供が好きだから喜ぶよ。それに、毎日3,4人の若い者が泊まっている」テツが言うと、リュウも口をはさんだ。「みんな金がなくなると来る。食いものも酒もあるからね。金があるときは、じいさんに渡すが、じいさんは使わずに、そいつが金欠病になると返す。ただ、においに耐えられるか。
おれは長時間は無理なので、金がないときは仲間の」
ぼくはあのおじいさんがどんな人か興味が湧いてきたので、もっと聞きたかったが、テツが、「とにかく腹が減ってきたので、何か食おう」と話題を変えた。
ぼくは、「お世話になったので、ご馳走します」と答えた。
「それはできない。おれたちにもプライドというものがあるからな」テツはきっぱりと断った。
「それじゃ、コンビニで何か買います。ぼくもお腹がすいて」
それは了承してくれたので、三人でコンビニに行った。そして、公園で食べることにした。

のほほん丸の冒険
第1章7
弁当3つとお茶3つ、お菓子を3種類、それにテツとリュウの二人には缶ビールを公園にあるテーブルに広げた。
「こりゃ、すごいぜ。ビールを飲むのは3か月ぶりだな」リュウが叫んだ。
リュウが、コンビニでビールが並んでいるケースをちらちら見るので、ぼくが「ビールはどうですか」と聞いたのだった。
テツもテーブルを見て、「そう興奮しなさんな。しかし、これは宴会だな。ぼく、ありがとうな」と上機嫌だ。
それから、3人とも一言も言わず弁当を食べ、おやつを食べた。二人はビールをうまそうに飲んだ。
「ごちそうさんでした。うまかった。しかし、リュウ、あれだな」とテツが口火を切った。
「何ですか?」リュウが聞いた。
「この子のように、知らない人から頼まれたことを自分を犠牲にしてやるなんてことはおまえにはできないだろう」
「できませんねえ。もっとも、大事なことをおれに頼もうとする人はいませんけど」「確かにそうだ」テツはビールで赤くなった顔をさらに赤くして笑った。
「しかしだ。相手が慌てていておまえのことを観察しないで、おまえに頼んだとしよう」
「今日はからみますねえ。何を頼まれるんですか?」
「この子のように、何か預かってくれと頼まれるんだ」
「1時間ぐらいは待ちますよ。しかし、警察には行きませんよ。おれは何回も捕まっているので、おまえが盗んだんだろうと疑われるのはまちがいないですから」
「それは確かだ。しかし、おまえの手には預かったバッグがある」
「攻めてきますねえ。バッグを開けて手がかりがないか調べます」
「それはありだな」
「きみはどう思う」テツは、お弁当のせいか、ぼくを丁寧に呼ぶようになった。
「そうですね。次どうするかまだ考えられないです。今は預かったものをそのまま返したいだけです」
「そうだろうな。きみは真面目そうだ。お父さん、お母さんがいないと言っていたな」
「はい。パパはどこか外国で生きていると思います。パパの友だちがパパからの伝言を連絡してくることがありますから。しかし、ママのことはまったくわかりません」
「エリートの家もたいへんだな」
「エリートじゃないです。ほとんど施設で暮らしてきました」
「おれもそうだよ」とリュウが言った。
「おまえは親に捨てられたんだろう」テツがからかった。
「まあ、そういうことになりますね」
「親は帰ってこなかった」
「よくご存じで」
「100回は聞いたぞ」
「結局両親は捕まっていて、名前も住所も言わなかったようです。親戚中たらい回しにされましたが、中学を出るまでの6年間は施設です。施設を出てからは何回も捕まったけど、じいさんに拾ってもらって今に至るです」
「それはおれも同じだ」テツも身の上話をはじめた。
「父親はむしょぐらしだし、母親はあちこちの温泉場で働いて、家にはほとんど帰ってこないし、まあ、おまえと同じ境遇だな」
「それからどうしたんですか?」
あまり年上の人の境遇を聞くことがないためか、ここぞとばかりに聞いたようだ。
「おれか? おれは中学を出ると、鉄工所で一生懸命働いたさ。
しかし、住み込みの先輩が悪かった。昼間はまじめに働くが、夜になると人間が変わる。
ばくちがとにかく好きで、しかも、時々おれについてこいというのだ。ある日、先輩がばくちの途中で体調がおかしくなったことがあった。しかし、胴元がやめさせてくれないので、おれが代わりにすることになった。ばくちのことはよく見ていたので、その日相当勝ってしまった。ビギナーズラックというやつだな。
おやじがばくちで人生や家庭をつぶしたので、ばくちは絶対しないと決めていたが、勝ったので、先輩がおれを離さなくなってしまった。
しかし、最後には負けが込んできて、先輩に顔向けできなくなり、鉄工所を辞めざるをえなくなった。
それからあちこち務めたが、先輩運が悪くてどこも長続きしなかった。それからはおまえと同じコースだな。じいさんに助けてもらわなかったら、今どうしているか分からない。あっ、9時だ。じいさんが心配している」テツは公園の時計を見て叫んだ。

のほほん丸の冒険
第1章8
すっかり暗くなっていた。お互いの身の上話で時間を忘れたのだ。3人で弁当の容器などをかたづけて、おじいさんのテントに急ぐことにした。
しかし、帰り道も、誰かが何を言うと、誰かが聞くことになり、途中で立ち止まることもあった。年齢も違うし、知り合ったのも2時間ほど前だったのに以前からの友だちのような気分だった。
ようやくテントに近づいたようだ。テントがある一角は明かりがないので、ぼくにはわからなかったが、二人は歩道から空き地に入った。
テツは、「じいさん。遅くなりました」とテントの入り口を開けた。後ろから見たが、小さなランプがついているだけなので、暗くてよく見えない。
「帰ってきたか」という声が奥から聞こえた。テツが、「じいさん。子供を泊めてくれますか」と叫んだ。
「お安いことじゃ」じいさんもすぐに答えた。「早く上がれ」
リュウはぼくにも上がるように言って3人でテントの中に入った。確かに臭いが、少し慣れてきたようで、吐き気はしなかった。しかし、布団があちこちにあるので、リュウの手をもって摺足で進んだ。
おじいさんの前まで行きすわった。そして、「結局誰も来なかったんです」テツが報告した。
「そうじゃったか。それは気の毒だったな」
「この子は休むことなく探したんですが、女の人も、男らもいませんでした」
「おまえら何か食べたのか」
「実はこの子におごってらったので、それを食べたので、帰りが遅れてしまったわけです」リュウが報告した。
「そんなことまでしてくれたのか」影法師となったおじいさんはぼくに言った。
「いや。こちらこそ助かりました」
「ビールまでおごってくれました」リュウが止まらない。
「どうせおまえがせがんだな」
「そんなことはしませんよ。ちらっと棚を見たかもしれませんが」
「それがせがんだことじゃ」
「いらん気を使わせてすみません」リュウはおどけた調子でぼくに謝った。
「とんでもありません。公園では楽しかったです」
「疲れたじゃろ」
「いや。二人がぼくを守ってくれていたので、疲れていません」
「まあ、ゆっくり休め」
「今日は、サトシ、マサ、アキラが来るんですね」テツが聞いた。
「よくわからんが、誰かが来るじゃろ」
「それならおれたちは帰ります。明日すぐに来ますから」
「もっとゆっくりしていけ」
「変なのがいっぱいいると、この子が落ち着いて休めませんよ」
「そうかもしれん」
テツとリュウは、テントの奥のほうで何かしていたが、すぐに出ていった。
おじいさんは、「二人が今布団を敷いてくれたので、そこで寝なさい」と言った。
ぼくは礼を言って、自分のリュックを横において、預かったバッグを胸に抱いて横になった。
「おじいさんの世話をする当番が決まっているのか。それにしても、このおじいさんは何者で、リュウやテツなどの若い人も何者なのか。とにかく、悪いことをする人ではないようだ。明日は返せるだろう。それから、叔父さんに連絡を取ったほうがいいだろう。叔父さんの家に行くかどうかはわからないが・・・」
そこまで考えたが、一気に睡魔が襲って来たようで寝てしまったようだ。
「おじいさん」という声が遠くで聞こえた。
「静かにしろ。客が寝ている」という声も聞こえた。「わかりました。上がります」
サトシ、マサ、アキラか。リュウぐらいの年か。仕事はしているのか。リュウは時々すると言っていたが。
「子供じゃないですか」誰かが聞いた。
「どうしたんですか。迷子ですか」
「違う。知らない人から預かったバッグを返そうと一日新宿駅を探しまくったが、結局相手はあらわれなかった。おまえたちはそんなことできないじゃろ?」
「たいしたものではなかったじゃないですか」
「そういうことではない。早く寝ろ」若い男たちは自分の場所を作って横になったようだ。ぼくもすぐに寝てしまった。

のほほん丸の冒険
第1章9
どこかで、「ぼく、ぼく」という声が聞こえる。慌てているようだ。声のほうに走りだした。
多くの人が行き交っているが、助けを求めているような人はいない。思い切って、「探していました。預かっていたバッグを返します」と大きな声で叫んだ。
しかし、誰もぼくのほうを振り向かない。「どこにいますか!」と何回も叫んだ。
また、男らが出てくればやっかいだが、仕方がない。
あっと思った。「ぼくを呼んでいたのはママかもしれない」
ぼくは、「ママ、ママ」と叫んだ。今度はぼくをちらっと見る人がいたが、すぐに歩いていった。
ママに会ったのは、7,8年前だ。その時、どこかに一緒に行った記憶がないから、そのままプラットホームですぐに別れたかもしれない。それでか、ママの顔は思いだせない。ママもぼくの顔は覚えていないかも知れない。写真は持っているかもしれないが。
今もママはぼくを探しているのだろうか。ママに会いたい。しかし、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
駅だけでもなく、街でも、家でも、人は急ぎ足で行きかう。ぼくを知っている人でも、ぼくをおいてどこかに行ってしまう。ぼくは行きかう人の流れの中で一人取り残されているのだ。涙があふれてきた。
身体がたまらないほど熱くなってきた。体の上にあるものを取ろうとした。しかし、まだ熱いので、服も脱ごうとした。その時、目を覚ましたようだ。目の前にあるのは闇だ。薄暗い。
しばらく様子を見ていたが、自分がどこにいるのかわからなかった。
それで、頭の中を駆け巡った。すると、必死で逃げたことが浮かんだ。雑踏やビルの中を逃げまわった。すると、その記憶から、ベンチにすわっていた男に青いテントの中にかくまってもらったことを思いだした。
そうだ。ここはおじいさんが住んでいる青いテントの中だ。目を凝らして様子を見た。左で寝ているのがそのおじいさんだ。暗くてよく見えないが、向こうに寝ているのは後から来た3人の若い男だ。
テツとリュウもいたはずだが、どうしたんだろう。そうか。「明日来る」と言って帰っていったのだった。
そこまで思いだしたが、頭はもう働かなくなっていた。頭の中も暑い。まるで身体の熱が頭に燃え移ったようになっていた。
何かの拍子に自分の手首につないでいる紐を引っ張った。二つのものが近づいてきた。
それを胸の上に乗せた。一つはぼくのリュックで、もう一つは小さなバッグだ。分かった。「すぐに帰ってくるので、それまで預かっていてくれる。でも、誰か来ても絶対に渡さないでね」と知らない女の人に頼まれたものだ。それがどうしてここにあるんだ。すぐに返しにいかなければならない。ぼくは慌てた。
起きようとしたが、体に力が入らない。何回も小さく唸ったがどうにもならない。
何かにつかまろうとしたが何もない。頭を回して暗闇を見ると、少し闇が解けはじめたためか細い棒のようなものが立っているのが見えた。このテントを支えている棒だ。
それで、肘を使ってそこまで体を動かした。苦しくなったが、どうにか手が届く距離まで近づいた。
少し休んでから、身体をうつぶせにした。それから、棒を両手でつかんで、身体を起こそうとした。少し身体が起きたので、膝で立った。手に力を入れて立ち上がろうとしたとき、棒がズルッと動いてテントにギィという音が響いた。
「おい。どうした。テントが倒れるぞ!」誰かが叫んだ。ばたばたという音がしたかと思うと、男たちが集まってきて、棒が倒れないように支えた。しばらく直していたが、どうやらテントは元に戻ったようだ。
「どうしたんじゃ」と騒ぎに気づいたおじいさんが言った。3人が事情を話すと、
おじいさんは、「何かあったのか」とぼくに聞いた。
ぼくが起きることができないことを知ると、ぼくの額に手を置いた。「かなり熱があるな。しばらく寝ていなさい」とやさしくいった。
それから、「誰か水を買ってこい」と若い男たちに命じた。一人の男が、「わかりました。薬はどうしましょうか」と答えた。
「薬はいらん。あいつを呼んで来い」と言った。別の男が、「すぐに呼んできます」
と答えた。二人の男が出ていった。ぼくは、それを夢のように見ていた。
それから意識がなくなった。「あいつは、自分は名医だと言っているが、わしの腹痛も治せんかったからヤブじゃ。しかし、薬は持っているじゃろ」という声で目が覚めた。
「テントの中に病原菌がいるんでしょう」
「馬鹿言え。わしはいたって元気じゃ。腹痛は草を煎じて直したわ」
「じいさんらしい。病気のほうが退散したんでしょう」どうやらおじいさんの相手はテツらしい。
「おーい。どうしたんじゃ。こんな早くから」という声がした。

のほほん丸の冒険
第1章10
その声に、おじいさんが「いいところへ来た」と叫んだ。
すぐに、「いいところへ来たって。おまえが呼んだろう」と返事が来た。
笑い声とともに、「先生、ありがとうございます」という声が聞こえた。ぼくは目をつぶったまま聞いていたが、聞き覚えの声だ。テツに違いない。しかし、先生とは誰だろう。
「どうしたんだ?」と聞かれると、「そこに寝ている子供が起きあがれないようです」と答えたのはやはりテツだ。
「子供?」
「どうしてここにいるんだ。おまえらの兄妹か」
「いいえ。違います。昨日誰かに追われていたので助けたんです」
「ひったくりでもしたのか?」
「そうではありません」
「いいから先に見てやってくれ」とおじいさんが急かした。
「わかった」誰かが近づいてくるのが分かった。目を開けると、おじいさんと同じぐらいの老人がぼくをのぞきこんでいた。
それから、ぼくの額に手をおいて、うーんと唸った。そして、体温計で体温を測ったり、シャツを上げて体を調べたりした。
ぼくに「どこか痛いところはないか」と聞いた。ぼくは、「どこもありません。寒いです」と答えた。
そして、「わしの病院に連れてこい。大したことではないが、こじれると時間がかかる」と言った。
テツがそばに来て、「ぼく、行くか。先生はお金を取らないし、警察にも言わないから」と小さな声で聞いた。
ぼくは、「いいえ。行きません。しばらくこのままいます」とかすれた声で答えた。
「先生。行きたくないと言っていますが」
老人は、「それもよかろう。病院に行っても風邪が治るわけがない。気休めで来てもらっても、他の患者に移すだけだからな。熱を抑える薬を出しておくから、適当に飲ませたらいい。うまいものを食わせたら大丈夫だ。数日しても治らなければ連絡してくれ」と指示した。
それから、「じいさん、薬はまだあったかな」と聞くと、おじいさんは、「まだある」と答えると、老人は帰っていった。
医者なのか。どうしてテントに中に平気で入るのだろうか。しかも、みんななじみがある。
「ということだそうです」テツはおじいさんに言った。
「それじゃ、何か温かいものを食べさせてやれ」おじいさんはそう言ったが、そこからまた眠ってしまったようだ。笑い声で目が覚めた。あはは、うふふ、わっはっはと楽しそうに笑っている。ここはどこだろうと少し頭を上げた。その拍子に頭がひどく痛くなったが、それをこらえてあたりを見るとテントの中だ。ぼくはまだここにいるんだ。
「あいつ、味を占めて毎日駅に行っているらしいぜ」
「あいつらしいな。以前は駅で知りあった女にしつこくつきまとって、警察に捕まったことがるから、今は、一人にこだわらないで、道を尋ねる女に目的の場所に連れて行んだ。そこで、電車1本の乗り過ごしたとか言って、食事やこづかいをせしめるのだ」
「お上(のぼ)りの女はいくらでもいるから、一日一人ぐらいはカモがいるようだ」
「あいつは昔から女にマメだから、天職を見つけたようだ」
駅?そうだ!思わずあっと叫んだ。そして、立ち上がろうとした。今度は少し体に力を入れることができた。体を半分起こしたとき、「おい。どうした?しょんべんか」と若い男が声尾をかけてきた。
「いいえ。外に出ようと思って」
「駅に行きたいだろう」別の男が聞いた。
「ぼく。まずこれを食えよ。それから考えよう」テツが雑炊のようなものを持ってきてくれた。リュウもお茶を運んできた。
あまり食べたくなかったが、無理してすべて食べた。それを見て、テツが、「今日は休んだらどうだ?」と聞いてきた。
「早く返さなければ」ぼくは独り言のようにつぶやいた。
テツは横にいたリュウとともにぼくを見ていた。「そうだ!いいことがある!」リュウが大きな声で言った。

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