挑戦

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復活ノート

「挑戦」
私たちの年令になれば、「夢」や「挑戦」という言葉を聞けば、気恥ずかしくなるかもしれません。
「そんなこと、『大の大人』に聞くもんじゃない」。
まるで、中学生や高校生のときの、あの「悪習」について、「まだしているのですか」と聞かれたときのように。
しかし、よく考えてみれば、今の私たちは、夢半ばであり、挑戦することをしぶしぶ止めざるをえなくなった状態なのです。
「夢」や「挑戦」という言葉は、生きているかぎりついてくるものだと思わなければなりません。
今、そのような言葉を口に出すのが恥ずかしくても、心の中では叫ぶことが大事です。
復活した暁には、新聞やテレビのインタービューを受けることがあると思いますが、「夢は何ですか」、「どんなことに挑戦していますか」と必ず聞かれますから。
しかも、今は、「失敗」という知識の宝庫も持っています。
だから、夢は、若いときよりも、また、少し負け惜しみで言えば失敗しなかったときよりも、しっかりとした土台に上に建てることができ、挑戦も、がむしゃらにあがいたりせず、相手の弱みを的確につかむことができ、そこを攻めることができます。
その相手とは、自分自身です。さらに言えば、「自分が限界だと思っていること」に対する挑戦です。
自分の能力をカバーするために、「時間の使い方」、「段取りの仕方」、「気持ちの高め方」など、失敗の遠因となったものを、しっかり強固にしましょう。
地震とは、大陸や海洋を支えるプレートとプレートがぶつかり、そのエネルギーが高まると、反発することだといわれています。
そうすると、私たちの心には、悔悟、不満などから生じたエネルギーはたまっているはずです。
この反発が自暴自棄の行動にならないように、失敗から学ぶ知力と、復活へ向うたえまない走力になるように挑戦していかなければなりません。
せっかく(?)失敗したのですから、「ただでは起きない」意地を見せようではありません(もちろん自分に)。
復活は、挑戦する気持ちがないとできないし、挑戦は、夢がないと続きません。
蛇足ながら、老後は、頭だけでなく、足腰の筋肉が左右します。足腰が弱くなれば、ベッドの上から離れられません。
私は、うろうろしたくなる性格です(「落ち着きがない」といわれますが)。
それでは困るので、毎日スクワットを500回しています。自分への挑戦は辛いものです。