ごみ(2)
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
ごみ(2)
「団塊の世代」の母親は、自分を主張しないことをゆうた。
まだ元気なときに、二人で、レストランへ行って、「何食べる?」と聞いてもゆわへん。
「好きなもん頼んだらええがな」ゆうても、「おまえといっしょでええ」。
歯がゆかったけど、今考えたら、自分のことをゆうのに慣れてへんかったのやな。
夫を立てて、いつも自分は後ろにいるように教えられてきた。どこかで、名前書かんとあかんときも、夫の名前の横に、「内」と書いた。まるで、平安時代の「~の母」とか「~の娘」みたいなもんや(これは、かなり上品な家だけやったけど)。
ぼくら庶民は、ほんまに貧乏やったけど、母親は、子供を育てるのに必死やった。
50年ほど前、食べもんがないときに、近所の同級生の母親が、「子供が残したもんは、汚いから食べへん」ゆうて話題になったことがある。「やっぱり金持ちはちがう」となった(今は、ダイエットの問題で、食べへんほうがええかもわからんな)。
これは、女房でもようせんかったけど、ぼくらの母親は、子供、つまり孫の鼻が詰まると、口で吸うとったな。それを見たとき、汚いとゆえば汚いけど、これが、ほんまの愛情かと感動した。
そして、経済が成長して、社会も安定してきた。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、電話など、夢のようなもんが、次々生活に入ってきたわけやけど、それらは、価値観を変えてきたとゆうより、生活を便利にしただけや。
テレビのコマーシャルなんかで、若い娘が、ペットボトルを「ラッパ飲み」するのを、よその星に行ったように思いながら、母親の世代が、終戦以後、価値感が変わったと思ったのは、「ごみ」やと思う。「ごみ」ゆうのは、プライベートそのもので、人前に出すもんやなくて、燃えるもんは、家で始末して、燃えんもんは、竹やぶや川原に捨てるもんやった。おかげで、子供のとき、竹やぶや川原に遊びに行くと、臭くてたまらんかった。
今は、「ごみ」は、資源ゆうことになった(そのために、ものすごい分別や。ラップは、紙と金属に分けたりと)。つまり、私(わたくし)のもんが、公(おおやけ)のもんになったとゆうことや(2、3年前、ごみの中に、何千万円のへそくりがあって、どこかの市が、「ごみ」は、市のもんやから、金も市のもんやと主張したことがあった)。
つまり、「ごみ」を出すことは、お上に差しだすことや。決まったように、決まった曜日に出さんと非国民になる。また、戦争中のようになった。目も悪くなり、重たいもんも持たれへん。せやけど、夫は、「わしが、そんなかっこ悪いことができるか」と協力してくれへん。
子供は、親と離れていて、何にもゆうてこんかったら、いつまでも元気やと思うてしまう。
ぼくは、母親が長い間入院していて、退院してきても、照れくさくて、「お母ちゃん」とようゆわんかった。それが、最後まで続いてしもうた。
今ゆうとくわ。「お母ちゃん。ほんまにごめんな。そして、長い間おおきに」