シーラじいさん見聞録

   

シーラじいさんの耳に、規則的な信号はどんどん大きく聞えるようになった。
やがて、暗闇の中に大きな物体を感じた。まるで岩のように立ちふさがっていた。
信号は、そのどこかから出ているようだ。あの船にちがいない。船のまわりを一巡した。
船底を上にして沈んでいた。その上を泳ぐと、中ほどに大きな窪みがあった。ボスは、スピードを上げて走る船を見事に攻撃したようだ。
それから、船から離れて、海底に降りた。オリオンがくくられていたボートを探そうとした。ロープが切れていなければ、この近くにあるはずだ。
幸運にも小さな岩はあちこちにあるが平坦な海底だった。
船から少しずつ離れていき、岩の一つ一つ見てまわった。海底がやわらないので、土に埋もれて、岩のように見えるかも知れないからだ。
しかし、なかなか見つけることができなかった。ようやく船から2,3キロ離れたところでボートを見つけた。
少し埋もれていたが、上向きだった。こんなに近くにあるということは、沈んだときロープはちぎれていなかったらしい。
ボートにもあたりにもオリオンはいなかった。しかし、オリオンをくくっていたにちがいないロープが、ボートの端に残っていた。
シーラじいさんは、「オリオン、許してくれよ。どんなに苦しかったことだろう」とつぶやいた。
調査官の話によれば、イルカの指令は、海面を調べるだけでいいと言ったようだが、オリオンが、ボートにくくられていたという情報は伝わっていたはずなのに、なぜ船やボートの行方を探せと指示を出さなかったのか。
そうすれば、船やボートが落ちていく道筋で、オリオンを見つけることができたかもしれない。
目につくところで無残な姿を見せないという体面だけを考えてのことか、それ以外なら何が起きてもいいということなのか。シーラじいさんは、二度とこの暗闇から動くことのないボートを見ながら、激しい怒りを覚えた。
それから、もう少し半径を広げて探したが、どこにもオリオンはいなかった。
船にもどり、海底との隙間から中に入った。信号音は、まだ生きている心臓のように聞えていた。
航海装置やテーブルが散乱していた。その間をていねいに見てまわったが、ニンゲンもいなかった。
シーラじいさんは、外に出た。すると、白いヘビのようなものが、くねくねと泳いでいるのが見えた。
すぐに近づいて、「すまないが、ちょっと聞きたいことがあるんじゃが」と声をかけた。
その白いものは、シーラじいさんの声に驚いて動きを止めた。2メートルはあるようだ。
そして、声がするほうに頭をもたげてきた。目も鼻もない。尾のほうも、団扇のように広がっているだけだ。
それは、白いロープのようだ。深海で、突然これに遭遇すれば恐怖に囚われるような姿だ。
「あれはヌタウナギです。目は退化しています。深海には目が必要じゃないのでね。
しかし、どんなに離れていても死肉の臭いだけでなく、もうすぐ死肉なるという臭いまで嗅ぐことができるんだ。
そして、体にもぐりこみ、歯のついた舌で肉を削って食う。敵に襲われれば、ヌタという粘液を出し、相手を動かなくさせる。しかし、あんなに大きなものは見たことがないなあ」
私のそばにいた多田さんは、興奮気味に言った。
ヌタウナギは、少し緊張した声で、「なんざんしょ」と答えた。中年の声だった。
「近頃、ここらでご馳走にありついたということはないかね」とシーラじいさんは聞いた。
「いや、ないね。2,3年前、この辺に驚くほど大きいのが落ちてきて、近在の者が皆集まっても、食い尽くすのに三日三晩かかったことがありましたが、最近はとんとね」
「そうか。この船に、わしの知りあいがいたものでな」
「こいつが落ちてきたとき、しめたと思ったが、かぶりついても歯が立ちゃせん。
それで、あっちこっちを渡り歩いているという始末でさあ。もっとも、貧乏暇なしは、わしらの習いで、そんなあことは苦にもなりませんが」
ヌタウナギは、気を許したようにしゃべりだした。
「それは邪魔をしたな」
「へえ、ごめんなすって」
そういうと、ヌタウナギは、またくねくねと泳いでいった。
それを見送りながら、シーラじいさんは、「すると、オリオンは、ボートにくくられたまま沈んではいないようだな」と思った。
そのとき、シーラじいさんは、自分の体が限界に来ていることを感じた。
息苦しく、意識が遠のきそうだった。
意識を振しぼって、あの調査官たちがオリオンを見つけているかもしれないと思い、力を入れて浮かびあがった。
急ぐことは命取りなので、辛抱しながら進んだ。
ようやくあたりがうっすらと見えるようになった。調査官たちの影は、どこにも見えなかった。
もう調査が終えて帰ってしまったかと思い、海面に顔を出した。
油の帯が、まだ少し残っていた。

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