修行
今日も、ムーズがやってきた~君と漫才を~
「修行」
生きることは修行やと思う。まぁ、ゆうたらソフト修行や。
したいことを我慢するのは辛いやろ。せんとあかんことをするのもしんどいやろ。
朝早う起きること、いやなやつと話をすること、毎日決めたことをすること。なんぼでもあるけど、気持ちが切れたら、なんもでけへん。
だから、別に、寺や修道院にこもる必要がないで。
思い出すのは、比叡山の修行に「千日回峰」ゆうのがあって、「千日」ゆうても、7年間ほど、地球一周分ぐらい走らんとあかんらしいな。もちろん走るだけやないけどな。それを、何回もした坊さんがいる。ようニュースで見たわ。
ぼくの知り合いは、それが気に食わん。始めるときがテレビに出るやろ。テレビなんかにゆわんでもええやろとゆうわけや。まあ寺の方針やからな。
その人は、元魚屋で苦労したゆうことや。一晩中寝んと走らんとあかんから、ぼくは、でけへん。血圧高いから、適度のアルコールを飲むようにゆわれているからな(ほんまかいな)。
もともと寺ゆうのは、修行の場やから、俗世間と離れていたんやな。桜が、きれいでも、開放はしてへん、見せるために、アジサイかなんかを植えたんは、まだ百年ちょっとしかたってへんらしい。
ぼくは、毎日修行してるで。電車に乗ってると、近くにすわっている人が、ガムを、くちゃくちゃかんでいることがあるやろ。本人は、なんにも感じてへんやろけど、あれ見ると、なんか腹たってくる。人をおちょくっているようなかみ方を見ると、昔は、席をかわったことがある。「なめとんかい」とゆうたら、「そうや、ガムなめとんじゃ」とけんかになりそうやからな。今は、修行やと思って、じっと見ているねん。
電車の中には、修行は、まだまだある。今、車掌が、「ご用はおまへんか」ゆうてくるとき、戸口で、礼をするやろ。あれいやや。思わず、目ぃふせるたくなる。本人らも、これが責任ある仕事と関係あるんかと思てるはずや。
また、娘はんの化粧。ぼくら親の世代が、「公私の区別」を教えんかったからやな。もっとも、あれは、そっと見ているけどな。
また、二人掛けのシートの心理戦もおもろいな。横に、だあれも来んように、通路側に、荷物をおいたり、人が入りにくいように、通路側にすわったりしてる。また、荷物おいてる人でも、横を、人が通ると、すわらんといてくれと願いつつも、荷物をひざに置こうとする気配がある。これは、修行ではなく、鑑賞やった。修行は、人の心やなく、自分の心を見ることやったな。
ぼくの場合は、修行やなくて、リハビリが必要やとゆわれてる。よう短気起こすからな。
ぼつぼつ「人好き」になっとかへんと、年いくと、助けてもらわれへんからな。
人生は、修行や。