ユキ物語
2021/05/07
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(214)
「ユキ物語」(1)
美佳が西側の白いカーテンを下した。これは毎日のルーティンで、他にも店員は4,5人いるのに必ず美佳がしている。さらに言えば、西日が眩しいときだけでなく、雨の日もそうしている。
もちろん最初は西日を避けるためだったはずだが、今は今日の営業を終わらす準備をするようにと部下に伝える合図となっている。
美佳はこの店で店長のような役割をしているのだ。年は5,6才ぐらいか。いや、それはおれたちの場合で40前ぐらいか。
おれは店員同士が話していれば近くに寄らずに聞くようにしているが、美佳の年令が話題になったことはないはずだ。他の店員は、20代ばかりなので、本人が自ら話さないからだろう。
ただし、店の雰囲気は明るい。美佳の下でみんなてきぱきと働いている。
今、「のような」といったのは経営者らしき男が来たときは、店員の前で美佳のことを「店長」などと言わないからだ。経営者は自分の立場を強調するためか、部下に対して、やたら店長、支店長とか呼ぶ輩(やから)がいる。
つまりは、自分は店長や支店長の上にいると言いたいのだろうが、美佳に関しては、その事情はわからない。
おれがここに連れてこられたのは2年前で、すでに美佳がすでにここにいた。
ただし、まだカーテンを下ろすことは閉店の準備をすることであるという暗黙の了解はなかったように思う。
それはともかく、おれも今はその意味を十分汲み取って、今日も終ったと自分に言い聞かせるのだ。
そんなときは、もちろん客がいなければ、大きなあくびをして疲れを取るようにしているのだが、ときには店の外から、おれの名前を呼んで、「まあ、かわいい!」などと叫びながら店に乱入してくる子供がいることもある。
そんなときはされるままにしている。子供が来ることはつまりはその親も来るから、そう邪険にすることもできないのだ。こういうときにかぎって制約につながることもあるからである。
しかし、今日はそれもなくてこのまま終われそうである。美佳をはじめ、4人の店員は機嫌がよい。時間どおり仕事を終えて、しかも、成約は5つあったようである。こんなことは滅多にない。機嫌がいいのはもっともである。
さらに機嫌がいいのは残された商品どもである。今日あれだけ楽しく遊んでいたのにその相手がいない。しかも、明日になれば自分もここにいないかもしれないのに無邪気なものである。
「それは畜生だからだ」と人間は言うかもしれないが、そうではない。
自分たちの運命は自分たちで決められないものであるということが、自覚しようがしまいが心のどこかで分かっているからである。
自覚したところで、自分がいないところで運命が決まってしまうのであれば、どうしようもないのだ。それなら、今日楽しく過ごすしかないのだ。生まれて数か月の商品どももいそれを知っているのだ。
そういうおれも、ひょっとして明日になればここにいないかもしれない。
この2年間ここで宮使いしているから、おれの身の上に何かあれば店員が言葉をかけてくれるだろうが、こればかりは安心できないのだ。そのとき、店の外でおれを見ているものに気づいた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(215)
「ユキ物語」(2)
やはりあいつだ。道に立ち止まってじっとおれを見ている。誰かが近くを通っても身動きもせずにおれを見ている。
夕焼けがはじまっているが、あの薄汚さははっきりわかる。
元々はおれと同じ色だっただろうが、もはやその面影はなく、冬の枯草のようだ。
しかも、腹の骨が見えている。食うものも足りていないようだ。
それよりあの目だ。射るというより、おれの一挙手一投足にへばりつくような視線を向けている。
たぶん、おれに対して妬みを感じているのだろう。おれも無視したらいいのに、つい見てしまう。どうしてだろう。おれは素直に自分の心をながめた。
あいつに見られると、自分が後ろめたい気になってくるのは認めざるをえない。
しかし、あんな薄汚いやつのために自分を疑うようになるのか。
それが分からない。だから、また見てしまう。
世間は、つまり人間とおれたちの仲間も合わせてのことだが、おれとあいつとの間には、まごうかたない差があるのは事実であると考えるだろう。
それは疑うことのないことだ。しかし、それがどんな差だろうか。
あいつは、不潔だ。あの枯草にはダニがうじゃうじゃいるだろう。その点おれは最新の管理でケアされている。しかも、輝くように白い。我ながらうっとりする。
あいつは、今日食いものにありつけても、明日はどうなるかわからないような存在だ。
朝から食いものを見つけるために、あっちへ行ったりこっちへ行ったりいらぬ労力を使って一日が過ぎる。何という生涯だ。
でも、自由ではある。自由!自由とは何だ。食いものを探すことか。他のものに脅されて慌てて逃げることか。それはご苦労なことだ。
でも、自分のしたいことをして、自分が行きたいとこにいくのを自由というのなら、おれには自由があるのか。
誰も聞いていないから、正直に答えろよ。おれは自分にそう言った。あいつを見たときに感じる後ろめたさを幾分かでも知りたいからだ。
それなら言おう。おれには自由がない。ただ、仲間を売り払う手先となって贅沢な暮らしが約束されている。もし病気にでもなればどうなるかわからない。
あいつと同じ運命が待っているかもしれない。
そうだ。店員同士が小さな声で話していることを聞くことがあるが、それも自由に関することだ。
「ここをやめようかな」と誰かが言うと、他のものが、「何かあったの?」とか「寿?」とか聞いて話がはじまるのが常である。
「全然。最近わたしが別れたの知っているじゃない」と次の段階に入る。
「それは知っているけど、ユミの性格考えたら、当てつけで結婚するのかなと思っちゃってさ」と言う者が出てくるのだ。
「まさか。しばらくは男のことは考えないで、自分の人生を考えることを決めたのよ。人生を決めるのはお金しかないでしょう?」
「それはそうだけど。で、ここをやめてどうするの?」
「そう簡単には決められないわよ。まず、自分を自由な状態にしなければ、碌な考えしかかばないわ」、「そういうことか!」
「そうよ。自分の心を自由にすると、何がしたいかわかってくるはずよ。そして、お金持ちになる。男なんてそれからよ。お金につられてくる男なんて払い下げよ」
「ユミはすごいね」みんな感心したが、当のユミはまだここにいる。
とにかく、自由は人間もおれたちも魅力的なものであることはわかった。
さて、おれである。おれは金儲けなんてできないが(せいぜい人間が金儲けするための道具でしかない)、自由はほしい。
それに、人間のように、自由については真剣に考えなければならない。
そのとき、あいつがあらわれるようになって、おれをせっつくのだ。物事は両面あって、あいつのことで言えば、気分を害することもあるが、おれの背中を押す存在でもあるわけだ。
そこで、あいつを見ると、数人の悪ガキがこの汚らしいやつめとからかいはじめたようだ。ようやく動きはじめたが、相変わらず背中の骨がくっきり見えていた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(216)
「ユキ物語」(3)
おれは何もなかったように店内をうろつき、若いものを見てまわった。
先ほど言ったように、店に連れてこられたものもいついなくなるかわからない。
しかし、本人にとっては早くここを去った方が幸福な生涯を送ることができる。
だから、おれは、あいつらがいくら騒いでも叱ることもしないし、説教じみたことも言わない。するとしたら、いつまでもここにいる連中だ。そいつらは、人間にとって何か気に食わないことがあるのだろう。見てくれとか素性とか様子とか。
しかし、それは本人にとって理不尽なことだから、一言二言それとなく言葉をかけることはある。
それでも人間に好かれないと、今度は店側のほうからどこかに連れていかれる。
どこへか。それはわからない。しかし、数えきれないほどの、つまりそいつらの数だけの人生が待っているはずだ。
トルストイという人間は小説を書くことを生業(なりわい)としていたが、「アンナ・カレーニナ」という小説の中で、「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族 にはそれぞれの不幸の形がある」と書いているように、ここで不本意であっても、自分の生きる形があるということだ。
この言葉は、昔ここにいた読書好きの店員が、母子家庭のためにいかに苦労しているかを仲間に話していたときに引用したのを聞いたのだ。
それならおまえはどうなんだという向きもあるだろう。いずれは話さなければならないと思ってはいたが、自分のことは論評しにくいものである。
特におれの場合、人間ならば40を越しているのに、どうしてこんな店に、さらに特別な立場でいるのかは自分の口からは言いづらい。まあ、営業で使えると例の経営者か誰かが判断したのだろう。
おれは店員に呼びかけられてバックヤードに戻ることになった。これで今日の仕事は終わった。
若い連中は大騒ぎで走ってくる。おれの足元にぶつかりそうになりながらおれを追い抜く。そして、我先に晩飯にとりかかるのだ。
おれとしては、若い連中がどんどん食って自らの商品価値を高めるようにと親のような思いで見るのみだ。
ときどき元気のないのがいることがある。そんなときは、さりげなく近づいて様子を見る。
数日かけてでも自分で自分のもやもやを解決すればそれでいい。そいつはそれで成長したからである。
もし何日も自分の心をもてあますようであれば、さりげなく声をかけることにしている。
おれたちの時間は、人間の7,8倍速く過ぎているので、落ちた穴から自分で這いあがれない場合は、大人が助けなければならない。特に生後1年までの場合は、心の傷は致命的になることがあるからだ。
さて、今日は営業成績がよかったので、店は笑いで満ちている。
おれもすることはして、それがすべてうまく行った。ところが一つ気になることがあった。
あいつだ。ガラス一つ挟んで天国と地獄と言えば言いすぎかもしれないが、あの地獄の目はどうだ。
おれの、そして、おれたちの仲間の前には道が続いている。食いものを探して道なき道を行くものとはちがう。そう思うと少し楽になったので、すぐに眠ることができた。
翌日は朝から雨だった。しかし、近くのスーパーマーケットの特売日だったので、人は思うほど少なくない。店員も昨日の勢いが残っているからかみんなてきぱきと開店の準備をしている。おれも自分の姿が外から見えるように出入口のほうに向かった。
ようやく今日も終りに近づいたが、そこそこの成績だったようで、店内の雰囲気は悪くない。雨は続いていたが、美佳は西側のカーテンを下ろしはじめた。
おれは無意識に店の前の道に目をやった。いる!あいつだ。連日来ることはなかったのに昨日に続いて今日もいる。雨に濡れながらも、身動きせずおれを見ている。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(217)
「ユキ物語」(4)
今日もか!しかし、おれは今日こそあの目を無視してやろうと決めた。おれが見返すから、やつは図に乗るのだ。
それはうまくいった。30分後には店のすべてのカーテンが下ろされ、おれたちはバックヤードに戻った。食事をした後、若いものの相手をしてすぐに眠りにつくことができた。おれは敵に勝ったという満足感でいっぱいだった。
だから、翌日は気持ちよく仕事に取りかかることができた。これでやつがあらわれることはないだろうと思って、その日を過ごした。
しかし、その日の夕方西側のカーテンが下ろされ、何げなく外を見るといた!
おれは足が震えだした。しまった。どうして外を見るんだ。おれはおれを激しく叱った。やつを無視するという作戦が失敗したのだ。
動揺は傍目(はため)にも分るほどだったようだ。「どうしたの、ユキ。どこか悪いの?」と聞く店員もいたぐらいだ。おれが痙攣を起こすような仕草をしたからだ。店員はおれ近づいて子細に体を見た。おれは何とか平静を装ったので、店員は安心しておれから離れた。
おれはここでユキと呼ばれているが、今はそんなことに言及する余裕はない。
とにかく、おれはやつに尻を向けてこの場を過ごすことにした。
ようやくその日は終わった。おれは不意を突かれるとすぐにたじろぐが、すぐに元に戻ろうという意思も他のものより強い。
冷静になって、作戦そのものは間違っていないはずだ。作戦どおりにしなかったのが原因だと結論づけた。
そこで、これからはカーテンの時間が来たら、細心の注意でやつがいるほうを見ないようにしようと決めた。
しばらくの間はうまくいった。そろそろ一週間たつ。おれは作戦が成功したらどうか確認したい誘惑にかられた。
やつがいるほうを、いや、いたほうを見ないことに慣れてきた。そして、心は平穏になってきたから、自分の作戦の結果を確認したくなった。
しかし、すぐには実行できなかった。もしやつがいたらと思うと少し躊躇したのである。
何かうまい方法はないか考えた。おれは人間のガキにさわられながらも懸命に考えた。
そして、ある方法を思いついた。つまり、いつものように尻をやつのほうに向けるのであるが、首を少し曲げて目の片隅で確認するのである。
もしやつがいても、おれが見たということはやつは気づかないはずだ。それに、もう一週間たっている。いくらなんでもと思った。
おれは自分を女々しく思ったが、少し首を曲げてやつがいるはずのほうを見た。どうもいないようだ。あきらめたようだな。そう思ったが、今日はこれ以上の角度は取らないようにした。
もしいたらどうなるのだ。それがおれの臆病なところであり、慎重なところである。しかし、作戦はほぼ成功したという思いで、その日は終わった。
翌日、おれは首をもう少し曲げてやつを確認した。一瞬のことでよく分からない。
しかし、このままでは終われない。おれはくしゃみをするふりをして、ぐっと首を回した。おれは信じられなかった。確かにいる。
おれは、店員にもやつにも動揺していることを悟られないようにふるまった。
そして、やつの意図を考えるべきだと思った。まず、やつは毎日おなじ時刻にあらわれる。美佳がカーテンを下ろす意味が分かっているかのようだ。
西側のカーテンが下ろされると、掃除や打ち合わせをして30分ほどで店は閉まる。もちろんおれたちはそんなことはしないので、その間はのんびり待つ時間なのである。
おれも外を見ながらのんびりすることがある。それに合わせて姿をあらわすことにしているようだ。つまり、おれに用事があるのだ。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(218)
「ユキ物語」(5)
しかし、あいつはおれに何の用があるというのだ。あいつを見るとき、おれの目に侮蔑したような表情があるのが気に食わないからか。確かに嫌なものを見たようにはしただろうが、それで毎日に来るとは思われない。
余談だが、人間はおれたちに対して純血種をさも高級なものとみなすが、人間はすべて雑種のくせにと思うときにはおれの目には人間に対する侮蔑が浮かんでいるであろうが、それを客や店員に分かるはずがない。
それとも、おれが自由というものにあこがれていることを悟って、おれに見せつけるためか。それもありえない。どれもおれを納得させるものではない。
しかし、理由が分からないからといってほっておいていいものか。
このままではやつは、晴れの日でも、雨の日でも、同じ時刻に必ず姿を見せるであろう。
すべてにおいて勝っているはずのおれが、薄汚いやつに追い込まれているような気がしてきた。
しかし、戦いというほどのものではない。ただ、早く決着をつけたほうがいい。
刺さった棘(とげ)は早く抜きたいのは誰しも思うところである。
さて、どうするか。あいつの存在が大きくなってきてから、おれは考えた。そして、唯一無二の方法を思いついた。
直接あいつに、「二度とここにあらわれるな」と警告するのである。しかし、そのためには、そのタイミングが必要である。あいつのがいる場所とおれがいる場所はたった20メートルしか離れていないが、その間にはガラスがあり、人間の目がある。
おれは昼過ぎに店員に連れられて散歩に出るが、そのときにはやつはいないし、いても声をかけるわけにはいかない。
やるべきことが決まれば、あせる必要はない。おれは平穏な心で過ごした。
しかし、そのときが来たのだ。
3日後、店としては大変な事態が起きた。毎日午後6時30分に、美佳が西側のカーテンを下ろすのだが、そのとき夫婦らしき中年の男女が入ってきた。店には他の客がいなかった。
男が、「おい!」と低い声を出した。店員が、「いらっしゃいませ」と応対すると、「責任者はいるか」と言った。
美佳が出てきて、夫婦の雰囲気を悟って、「こちらへどうぞ」と契約するテーブルへ案内した。
おれも、「こいつらは何回か見たことあるな」と思いながら、聞き耳を立てた。
それによると、2か月前に買ったものがウイルスで死んだが、どう責任を取ってくれるかというような内容だった。
美佳は、定期的に獣医に診てもらっているので責任はないが、返金ではなく、同等の金額のものを渡すということを説明したが、相手は納得しないのである。
こお2か月毎日のように医者に行った。その費用だけでなく、慰謝料も必要だと主張しているようだ。
美佳は、契約の条項を説明したが、相手は聞かないので、オーナーに聞くと言った。さらに、相手は、オーナーがすぐにここに来ることを要求いた。
その怒鳴り声に他の店員はおびえてしまって、いつもの片づけができなくなってしまった。
しかも、そこを通らなければ若いものをバックヤードに連れていけないのである。
とにかく早くオーナーが来て、美佳の指示を待つしかない状況になってしまったのだ。
そのとき、自動ドアが少し開いたままになっているのに気づいた。誰か電源を切ったようだ。
突然おれの体に電気が走った。そうだ。今がチャンスだ!おれはおれの声を聞いた。
おれは無意識に動いていた。するっとドアの隙間から出た。幸い、店の前には人間がいない。
店の前には駐車スペースがあり、通りとの境には灌木(かんぼく)がある。
灌木が切れたところにいつもやつがいるのだ。
もちろん今日もいる。しかも、あれが突然目の前にあらわれたものだから、ぎょっとしたが、慌てて逃げようとはしなかった。
おれは、「おい」と言った。まるでさっきのクレーマーのような声だったはずだ。
やつは少し尻込みしながらおれを下から見あげた。
「おれのどこが気に食わないんだ」おれは躊躇せずに切り込んだ。
すると、やつは、「そうじゃないんだ。少し話を聞いてくれ」と答えた。
おれが何も言わないでいると、「ぼくの仲間にきみとそっくりなものがいる。本人も、『きみと兄弟だ』と言っている」
おれは言葉に詰まった。よりによっておれと兄弟がいるだって。どの口でそんなでたらめが言えるのか。
「それなら、そいつを連れてこい。話をしてやろうじゃないか」おれは態勢を整えてゆっくり言った。そして、「もう二度とここには来るな」と最後通告をした。
勝負はついたと思った。すぐに引き返そうと思って、向きを変えたとき、「そいつ死にそうなんだ。一度会ってくれないか」という声が聞こえた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(219)
「ユキ物語」(6)
「おれと兄弟だと言っているやつがか?」おれはまたそいつのほうを向いて聞いた。
「そうです。だんだん悪くなっています。最近では声をかけても返事をしないときもあります。ハァハァと苦しそうに息をすると、腹は大きくなったり小さくなったりしますけど、いつ止まるかもわかりません。
なるべくそばにいるようにしていますが、あの弱り方では、いつ死ぬかわからない状態です。
せっかく友だちになったので、あいつに何かしてやれないか考えました。
きみのことを兄弟だと言っていたから、それなら一度会わせてみたら奇跡が起きないかと思ったのです。それで、ここに来てきみに伝えようと決めました」
おれはこいつにわからないようにため息をついた。そして、腹の中で、条理にかなった話だ。そいつもいい友だちをもったものだ。ただ、おれには関係ない話だと思った。
やつはおれの気持ちを悟ったかように、「そうですよね。あなたには迷惑な話かもしれません。
でも、ぼくはあいつが好きなんです。食べものが少ないときは、まずぼくにくれるんです。こんなやつはいないですよ。なんとか元気になってほしいんです」
こんな話を延々とされるのはたまらん。おれは事態を変えるために、「そいつはどこにいるんだ?」と聞いてしまった。
これが事態を悪くした。いや、人生が変わった。そうだ。人生には何げない一言が大きな意味をもつことがある。諸君にも心当りがあるだろう。これがそうだった。
「すぐそこです」そいつはすぐに答えた。
「すぐそこ?」、
「はい。この通りを行って、信号を越してから一つ目の道を左に曲がるとすぐです」
おれはさりげなく信号を見た。散歩はいつも反対に行くからそちらに行ったことはないけど100メートルぐらいに確かに信号が見える。そこを渡って次を左か。
おれが確認しているとき、そいつは、「すぐそこなんです」と繰り返した。
その時おれはまた言わずもがなのことを発してしまった。「それなら顔だけ見に行く。そう時間がないんだ」
「ありがとうございます、案内します」
おれはすぐに後悔した。しかし、これが浮世の義理というものだろう。仕方がない。これでこいつらと縁を切れるなら安いものだ。
おれはそう考えてそいつについていくことにした。途中、おれを見て振り返りながら、何か言っている人間がいたがおれはかまわず進んだ。もうすぐ暗くなる。そうなるとおれに気づく人間はいなくなる。
「あいつはほんとに喜ぶと思います」そいつはやけに余裕を見せておれを見て声をかけてくる。
おれは、「急いでくれ。早く帰らなければならないんだ」と言った。
「わかりました」やつは小走りになった。車が来ないか確認して、赤信号を向こうに渡った。20メートルぐらいで細い道があった。ここを左に行けばすぐということだな。
さらに暗くなって、しかも、人通りが少ない。好都合だ。おれがいなくなったことを知った店員は探すだろうが、まさかおれが散歩コースとちがう道に向かっているとは想像もしないだろう。
灯りが少なくてはっきりわからないが、このあたりは今風の家は少ないようだ。
それが余計におれを不安にする。しかし、やつは進む。「おい。まだか」とおれは聞いた。
すると、「着きました。ここです」と言うと、家と家の隙間に入っていった。
ひどく狭く、おれの体がようやく通るぐらいだ。しかも家の境は板塀のようだ。おれの体は汚れているかもしれない。
そう思っていると、板塀の奥まで行くと、やつはおれを振り返って、「ここに入ってください」と言った。よく見ると板塀の下に穴が開いていた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(220)
「ユキ物語」(7)
やつは、「ここです」と言うようおれを見た。それから、狭い穴に体を入れた。しかし、骨と皮だけになっていてもすぐには入らないようで、無理に体を押し込んだ。
おれにもそうせよと言うのか。しかし、そんなことは聞いていない。おれが抗議しようとしたが、やつは中に入ったので姿が見えない。おれは仕方なしに穴に頭を突っ込んだ。
そいつは、早くしてくださいと言うようにおれを見ている。おれは一瞬帰ろうかとさえ思ったが、ここまで来てしまったので、その考えを抑えて体を押し込んだ。ぐっと力を入れると体が動いた。さらに力を入れると、体がすっぽり抜けた。
やつはおれが入ったことを確認して前に向かった。おれはあらためて抗議しようとしたが、あたりの雰囲気が不気味なのに気づいた。
しーんと静まりかえった暗闇の中にさらに黒いものが無数に立っているのだ。しかも、やつはその間に入っていくのだ。おれは体がすくむのを感じた。
やつをおれの異変を感じたのか、「ここはお寺という場所で、死んだ人間を弔う場所です。人間は自分の家族が死ぬと、墓の中にお骨を収めます。それで、時々会いに来ています。
墓と聞いただけで怖がるものがいますが、どこが怖いのかぼくにはわかりません」とおれをからかうように言った。
ばかばかしいから、おれは何も答えず進んだ。ようやく前に大きな建物があった。近くには小さな灯りがついていたので、形はわかった。
おれが散歩の途中で見るような建物ではない。これが寺なのか。
しかし、やつはそばを通って背後に回った。またしばらく行くと、小さな建物があった。
先ほどの建物ほどは大きくないが形はよく似ていた。やつは、「ここです」と言った。床が高いので無理をせずに中に入ることができた。
すぐに石垣のようなものがあり、そこを上がると、やつは、「連れてきたよ」と声をかけた。
おれは緊張した。ほんとかどうかはわからないがおれの兄弟と言っているやつがいるのだ。しかし、返事はない。ただ誰かいる気配はあった。
おれは目を凝らして見たが、何も見えなかった。柱のようなものがあってその陰にいるようだ。
その時、「こちらに来てください」とやつが言ったので、おれは柱のそばまで行った。
白いものが横たわっていた。顔を少し上げたようだが、おれに似ているかどうかはわからない。
「きみが言っていた兄弟が来てくれたんだよ」やつはまた繰り返したが、返事はない。
おれはどうしたらいいのか分からなかった。まさか兄弟と呼びかけるわけにはいかない。
確かに5,6人兄弟はいたようだがすぐに別れ離れになったのだから、どんな兄弟がいたかわかるすべはないのだ。
仕方がないので、おれは、「きみはいい友だちがいて幸せだ。友だちのためにもがんばるんだ」おれはあたりさわりのないことを言って慰めた。
やつは、「ありがとうございます。こいつは兄弟に励まされて喜んでいます」と言った。
その時、背後で光が走ったように感じた。おれは振り返った。「この奥にいるんだな」という声が聞こえた。
「そうです。後を追いかけてきましたから」という声が続いた。
「何だ?」おれはやつに聞いた。「よくわかりません。こんなことは初めてです」と答えた時、光はあちこち揺れながら近づいてきた。
「ここは少し上に上がっていますからわからないと思うのですが」やつは言った。
しかし、「奥じゃないのか」という声がすぐそばで聞こえた。
もし見つかったら、おれの兄弟と言っているやつは逃げられない。
おれは、「二人でばらばらに逃げよう。こいつは動けないんだろう?」と言った。やつは、「わかりました」と答えた。
おれとやつはばらばらに逃げた。「いた!」という声が上がった。おれは走った。しかし、初めての場所だったので、あの狭い穴がどこにあるのか分からない。墓石さえ分からないのだ。
おれはがむしゃらに逃げたが、どこかの隅に追い詰められた。おれは数人の人間の間を潜り抜けて逃げようとしたとき、どーんという音が聞こえた。おれは意識を失った。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(221)
「ユキ物語」(8)
鳥が鳴いている。何だか楽しそうだ。それに、はっきり聞こえる。いつもはガラスで遮られているから、外にいる鳥の声はあまり聞こえない。どうしたんだろう。店で鳥を飼うようになったのか。気になって目を開けた。
しかし、ここは店ではなさそうだ。おれは立ち上がった。頭をガンと打った。
天井は頭すれすれの高さしかない。しかも、鉄の棒で囲われているではないか。
ここはどこなんだ。おれは狭い中を動いてまわりを見た。
近くには机のようなものがあってかなり狭い場所だ。窓からは家の屋根が見えるから2階なのか。そして、木の枝がある。ときおり枝が揺れるから、鳥は枝で鳴いたり飛んでいったりしているのだろうか。
おれは閉じ込めれていることが急に不安になった。
しかし、あせって鉄の棒で体をぶつけることはばかげたことだ。おれは自分に言い聞かせた。
とにかく、おれを閉じ込めたものがいるのなら、おれをほっておくことはしないはずだ。
そいつの姿を見たら何か方法が分かるだろう。おれはそう思って静かに待つことにした。
1時間ほどしてドアが開いた。おれはそちらを見た。若い男だ。おれに食料と水を持ってきたようだ。
鉄の棒の下側を開けて、「狭いがしばらく辛抱しろよ」と言いながら、皿を置いた。
それから、机にすわって書類を見はじめた。おれは腹が減っていたが、おれは其の男を観察した。
「しばらく」と言ったな。これはどういう意味なのか。どこかに連れていくつもりだろうか。そして、それは何のためだ。
しかし、これだけでは何もわからない。もう少し状況を見よう。
こいつは20代か。悪いことをしそうな顔はしていない。店に来て、「ようやく家を買ったので犬でもと思いまして」と言う善良そうな男に見える。
その時、ドアが開いて二人の男が入ってきた。
一人は40代で、もう一人は最初の男と同じように若い。
「どうでした?」最初の男が言った。
「店にはこいつの張り紙が何枚も貼ってあった。それから、近所の店には貼ってあった」若い男が答えた。
「必死で探しているようだ」40代の男も言った。
「そうでしょう。看板犬でしたからね。散歩しているときは子供たちが集まっていましたから」
「いくら出すと思う?」40代が聞いた。
「100万はどうですか?」一緒に帰ってきた若い男がすぐに答えた。
「100万か。いくら看板犬でも、犬に100万出すか」40代は少し躊躇したように言った。
「でも、普通の店の看板犬ではなくて、ペットショップの看板犬ですよ。子犬でも何十万するのですから、出せない金額ではないでしょう」若い男は強気だった。
40代は、「うーん」と唸った。それから、「とにかく妙なことを考えないぐらいの金額がいいんだ。それに、代わりのものがいれば、あまり高いと払わないだろう」
「それはそうですが」
40代は、それでもまた考えだした。「途中で値引きすると足元を見られるからな。しかし、おまえの考えはよく分かった。それじゃ、100万で行こう。それで渋ったら何とかしよう」
おれはこいつらに尻を向けて聞いていた。こいつらはおれを誘拐したんだな。そして、解放するかわりに100万円を取ろうとしているのか。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(222)
「ユキ物語」(9)
おれは3人が話している間やつらに尻を向けていたが、それを聞いて3人をちらっと見た。
こいつらは人間を誘拐していたら極刑だろう。しかし、おれは人間でないので、そこはどうかしらんが、人質を取って100万円を奪おうとしている根性は同じだ。
こいつらは常習犯なのか。しかし、店では身代金を要求されたという話はあまり聞いたことない。いなくなったことは時々聞くが。
しかし、気絶させる飛び道具を用意しているのは計画していたのに違いない。
それなら、おれを兄弟と言っているのがいると誘い出したやつがこいつらのぐるか。まさかそんなことはあるまい。それなら、あいつらはどうしたのだろう。
今はそんなことはどうでもいい。とにかくこいつらは店に100万円出せと交渉するのだ。
今までのことを整理していると、おれは何ということをしたのだと後悔の思いが沸きあがってきた。そして、体が震えてくるのが分かった。
何としてもここを逃げなくてはならない。
店にはどのように連絡するのか。もし店が応じたら、どのように100万をせしめるのか。
そのへんは詳しくはないが、まずは警察に連絡をするだろう。悪党ももちろんそれは知っている。
つまり、お互いが慌てて動くはずだ。その時におれが逃げるチャンスはないか。
おれは寝ないで様子を見ることにした。
外は暗くなった。二日目の晩か。今日は下調べをしたようだから、いよいよ明日動くだろう。
しかし、翌日もその次の日もおれはここに閉じ込められたままだった。
どうしたのか。若いやつは食べものを運んでくるが、他の二人は来ない。まだ店との話はまとまらないのか。
おれは体の調子がおかしくなってきた。ちょっと急がなくてはならない。このままではいざというときに体が言うことを聞かなくなるかもしれない。
若い男が次に食べものを持ってきたときに行動を起こすことに決めた。おれはシミュレーションを繰り返して、その時を待った。
ドアがゆっくり開いた。おれはいつものように動かないでいた。若い男は檻の下をゆっくり開けた。
おれは躊躇せずにそこに頭を入れぐっと持ち上げたかと思うと、体をねじこんだ。
若い男は柵を下ろそうと力を入れたが、おれが外に出るほうが一瞬速かった。しかも、ドアが半分開いていたのでおれは部屋の外に出た。
狭い通路があった。おれはどちらに行こうと迷ったが、左に行った。
待て!と若い男の声が聞こえた。しかし、左は突き当りだった。
おれはすぐに向きを変えたが、若い男が止めようと待ち換えているのはわかっていたので、あきらめたように動きを緩めた。
若い男は安心したのかおれをつかまえるために身構えていなかった。
それを見たおれは勢いをつけて若い男にぶつかっていった。若い男はひっくりかえった。
おれは階段を飛んで降りた。降りたところは真っ暗だった。おれは外に出られないかあちこちに体をぶつけた。
若い男は降りてきてライトをつけた。おれはあきらめざるをえなかった。
若い男はおれに打擲(ちょうちゃく)でもするのかと思ったが、何か言うことさえせずに、おれを二階に戻した。
おれは元の檻に戻った。若い男もおれも、何事もなかったように時間を過ごした。
1時間ほどして二人の男が戻ってきた。「どうでした?」若い男が聞いた。
「電話に出た女は、最初犬が誘拐されたとは思っていなかったようだが、状況がわかって驚いていた。
とにかく、上司に伝えますと言うばかりだった。おれは、明日あらためて電話するからそれまでにどうするか決めておけと言うしかなかった」中年の男が言った。
「そうですか。仕方ないですね」若い男が答えた。しかし、先ほどのことを一切言わなかったのが不思議だった。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(223)
「ユキ物語」(10)
「いつ電話しますか?」同行していた若い男、確か山岡とか呼ばれていたな、その男が聞いた。
「あの店は10時開店らしいから、その前に連絡を取る。その頃には何らかの回答を持っているだろう」40代の男が答えた。
「そうですね。今頃社長と話しているでしょうし、まちがいなく警察にも連絡してるでしょう」
「しかし、警察も判断に苦しむだろうな」
「どういうことですか?」
「人間の誘拐ならすぐに動けるだろうが、犬だからな」
「なるほど。そこがおれたちの付け目ですね」
「そうだ。多分上にお伺いを立てているだろうが、市民の税金で犬の誘拐を捜査するのはあまり乗り気じゃないだろう」
「そうでしょうねえ。警察が動かないうちに一気に片をつけましょう」
「そうだ。しかし、用心には用心を重ねなければならない。
一人ぐらい刑事が動くかもしれないからな。身代金を取るやつが失敗する原因は相手と一対一という思い込みをすることだ。バックには必ず警察がいると思うことだ。そうすりゃ失敗は避けられる」
「ぼくはどうしたらいいのですか」おれの世話をしている若い男が聞いた。
「おれが電話したら、すぐにこいつを車に乗せてどこかの公園にでも放したらいい。その間におれたちは逃げる」
「分かりました。すぐに行けるように準備しておきます」
「おまえはおれをつけてきているものがいないかよく見ておくんだ」40代の男は中岡に言った。
「分かりました」
「肝心の金の受け渡しはどうするのですか?」
「だから、相手の答えを聞いてから判断すると言っているだろう?しかし、銀行に振り込ますことは一番やばいから現金に限る。
どこに置かすだけど、相手を攪乱しなければならない。まずこいつの写真を置く。
信用させてから、警察が動く前にいただくのだ。
おれは数か所の場所を見つけている。人通りが少なく、逃げやすい場所をな。
もったいづけているようだけど、敵を欺く前に、まず味方からということわざがあるだろう?
若いものは知らないか。もし秘密がばれてしまっても、味方に言ったことも嘘だから害はないということだ。
しかし、おまえたちに嘘を言っているわけではない。どこに金をもってこさすかをまだ決めていないということなんだ。相手とのやり取りで決めるつもりだ。
中岡はおれのまわりをよく見ておけ。あやしいものがいたらすぐに連絡しろ」
40代の男は二人の若い男に明日のシナリオを説明した。
悪党も学が必要なようだ。特に人間の深層心理についてはかなりの知識が必要だと思った。
浜の真砂(まさご)は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじと天下の大泥棒の石川五右衛門は自分を正当化する歌を残したそうだが、種は尽きないのなら盗人も尽きないのだろう。
しかし、後世まで名を残す盗人はその道の才能がなければならない。
しかも、どんな才能でももっているだけではどうしようもない。それを世に出す努力をしなければならない。
しかし、盗人の才能を磨くのは盗むのを繰り返すことか。まあ、このくらいにしておこう。それよりおれのことだ。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(224)
「ユキ物語」(11)
やつらがまんまと身代金をせしめたら、おれは解放されるだろう。
しかし、失敗したらどうなるのだろう。悪巧みにたけた盗人でも失敗することはありえる。
その場合でも、逃げるのに精いっぱいで、意味なく殺したり、足手まといになるようなものを連れていったりしないはずだ。それに、おれは口なしだから口封じで殺されることはないはずだ。
そうなると、どちらに転んでも命にかかわることはないだろうが、店に帰ると気まずい生活は覚悟しなければならないな。
店にいる仲間は子供ばかりだから、店やおれの状況を理解することはないだろうが、問題は美佳などの店員だ。
「こいつのおかげで自分たちは苦労した。それに店も大きな出費がいった」というような顔でおれを見るにちがいない。
ただ、おれを見たさに店に来る客が増えるだろうから、少しは売り上げが増えるかもしれない。
誘拐犯がばたばたしている間に逃げることができたら店も喜ぶだろうがそう甘くはないだろう。
悪党の親玉が講釈を垂れていたように、状況を見てそのチャンスがあればそうすることにしよう。ただ、一度失敗しているので、いくら気がやさしいあの若い男でも用心はしているだろうから、何が何でもというわけにはいかない。
とにかくこいつらから目を離さないようにしようと決めた。
おれの世話をしている若い男、名前は山崎だということが分かったが、これと中岡がおれのいる部屋にずっといたが、親玉も落ち着かないのか何回も顔を見せた。
親玉は、こういうことは流れに乗って相手を振りまわすのが極意だと言ったはずだが、基本的なことは決めておこうと言い出した。
まず山崎が取ったおれの写真をどこに置こうかという相談が始まった。
中岡が、「こいつを捕まえた通りの次の通りの角にコーヒーショップがあるでしょう?しかも、人通りがありますから怪しまれることはありませんよ」
「それでどうするんだ?」親玉は少し気分を害したように聞いた。
「ボスが」きょうびの悪党らしくボスと呼ばれているようだ。「ボスが電話をしたときは写真を置いている場所を言うだけでいいですよ」中岡は言った。
「で?」ボスはさらに不機嫌になった。
「写真にこちらに希望を書いておきましょう。金額とそれをどこに置くかなどを。そうだ!それをすぐに取りに行けということも言ってください」
「そうか」
「確かその角から2,30メートルぐらい行けば、狭い路地があって、奥にお地蔵さんがあったはずです。そこに置いてください。コーヒーショップの通り側にすわってペットショップの店員がくるか見張っています。これでまちがいなく最初の一歩はクリアできるはずです」
「まあ、それで行こうか」親玉は納得せざるを得なかったようだ。
「その後のことはどう考えているのだ」親玉は少し威厳を取りもどしたように見えた。
「その後のことはボスにお任せします」
「流れに乗らなければならないからな」ボスは安心したよう持論を繰り返した。。
「明日は忙しくなるぞ」ボスはそう言って立ち上がった。
ボスと中岡は出ていった。山崎だけがしばらく残ってから部屋を出た。
部屋は暗くなった。窓から外を見ると、木の枝は階下の光で黒いシルエットになって微かに揺れていた。星は出ていないようだ。
明日の朝にはおれのことが店に伝わるのだ。その後、どんな流れが起きるのだろうか。今夜、悪党は寝つかれないだろうが、おれは少し眠ることにした。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(225)
「ユキ物語」(12)
さすがのおれも暗いうちに目がさめたようだ。外は木の枝が判然しない暗闇だ。しかし、鳥の声はどこからか聞こえてくるから、刻一刻と明るくなっていくだろう。
まあ、おれが何かするわけではないが、悪党どもの成功不成功でおれの運命が左右されるのはまちがいない。
その時、山崎が入ってきた。いつもより早い。こいつも寝られなかったのか。
パソコンで何か見ている。すぐに立ち上がってインスタントコーヒーを入れた。
立ったまま一口飲むと出ていった。しかし、すぐに戻ってきた。
落ち着かないようだ。その間に夜はすでに明けきり、町は動きだす気配が出てきた。
このアパートは山崎一人が借りているようだ。おれが逃げようとしたとき少し分かったが、もう一つ部屋がある。
暗くて見えなかったが、そこにベッドがあるのだろう。他に同居しているものはいないようだ。女が来ることもない。一日中いることが多いが、家賃はどう払っているのか。もう少し事情を知りたいが、事態は風雲急を告げているのに、のんきなことを考えている暇はない。
その時、ボスと中岡が部屋に入ってきた。すると、ボスと中岡がすぐに入れるように玄関の鍵はしていないような気がする。
それなら、檻から出られたら、すぐに逃げることができるだろうが、チャンスがあるだろうか。今は悪党の様子に五感を集中しなければならない。
山崎はボスと中岡にもインスタントコーヒーを作ってやった。
3人は黙ってコーヒーを飲んでいたが、やがてボスが声を出した。
「さあ、いよいよだ。落ち着いていこう。みんな頼むぞ。金はきっちり3等分するからな。おれはせこいことは嫌いなんだ」
「はい」中岡と山崎は声を揃えて答えた。
「昨日、あれから下見して来たんだ。お地蔵さんがある筋とコーヒーショップの位置関係を確認するために店に入った。窓際の一番奥の椅子にすわれば、筋に入る人間がよく見える。
それから、お地蔵さんにも行ってきた。あの筋は向こうの道にも行けるし、途中左右に行ける道が三つある。まるで『あみだくじ』のようになっている。どこにでも逃げられる。山崎、よくあそこに気づいたな」
「散歩しているときに見つけたんです」
「そうか。あそこなら絶対大丈夫だ、それから、その時にこいつの写真をお地蔵さんの後ろにでも隠そうと思ったんだが、あのお地蔵さんには、花も新しいし掃除もされている。掃除するやつに見つかる恐れがあるから置かなかった。それで、今日電話する前に行く」
「ぼくも行きましょうか」中岡が聞いた。
「いや。一人で行ってくる。もしもの場合に顔が割れるのを用心したほうがいいからな」
「なるほど。お願いします。それじゃ、金を置かす場所はお地蔵さんにするのですか」
「候補地は二つある。一つはお地蔵さん。もう一つはスーパーがあるだろ?
広い入口の前にあるバス乗り場がある。いつも乗客がベンチでバスを待っている。その背後にあるいくつかゴミ箱がある。そのどれかに置かす。
警察に見張られても乗客に紛れることができる。バスが来たときに、金を取って店の中に入る。
すぐ左に店員用の出入り口がある。何気ないようにして進む。別の場所にも出入り口があるからそこから出る。その時は中岡は車で待て」
「はい」二人は緊張してきたようだ。
「よし。行ってくる」ボスは出かけた。二人はフーッと息を吐いた。「山崎、コーヒーを入れてくれよ」中岡が言った。
おれは時計を見た。9時30分だ。時計ぐらい分る。店のスタッフはいつも時計を見て、何かしゃべっていたので覚えたのだ。
ボスはお地蔵さんのどこかにおれの写真を置いただろう。そして、10時には電話するだろう。おれも、中岡と山崎のように喉が渇いてきた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(226)
「ユキ物語」(13)
二人はインスタントコーヒーを2杯ずつ飲んだ。その間にも何も話さなかった。
ただ何かに耐えているようだった。悪いことをするの骨が折れようだ。
やがて、中岡が腕時計を見て、「9時半だ。そろそろ行ってくる」と立ちあがった。山崎も時計を見て、「気をつけてな」と答えた。
ここから20分ぐらいでコーヒーショップに行けるはずだ。そして、すぐに店に入ってお地蔵さんがある路地が見える席にすわる。
そして、新聞でも読むふりをしておれの店の者がその路地に入るのを確認するのだ。まさか女性スタッフは行かないだろうから、本社からきた男性社員か。
警察が動くのなら、男性社員の横にいるかもしれないから、それもボスに連絡しなければならない。ボスは中岡からの情報を分析して、今度どうするか決めるわけだ。
さあ、どうなるか。おれは自分が当事者の一人であるのに、まるで映画を観ているかのように興奮してきた。おれたちは汗をかかないから、手に汗を握ることはないが。
11時が過ぎ、12時近くになっても、誰からも連絡が来ない。ボスと中岡は連絡しあっているだろうが、どうなっているのだろう。
便りのないのはいい便りというから、相手との交渉がうまくいっているのか。
しかし、待たされるほうはたまったものじゃない。おれは檻の中で落ちつきなく体を動かしていたが、山崎も窓から下をみたり、部屋から出ていったりをくりかえしていた。
午後2時近くになって、山崎のケータイが鳴った。山崎はケータイを見て電話に出た。「もしもし。ボスですか!」と叫んだ。
少しボスの話を聞いていたが、「えっ、ほんとですか!」と叫んだ。
「今山崎はどこにいるのですか?」
「そうですか。ボスは?」
「はい。じゃ、すぐ逃げます。ボスは大丈夫ですか」
「わかりました。また連絡を待っています」
どうも雲行きが怪しくなってきたようだ。怪しいというより、すでに中岡が捕まったようだ。
中岡が何かしゃべればボスも山崎もこのままではすまない。こんなことになるとは予想だにしなかった。
いや、失敗しても足手まといになるおれは解放されると考えていたから、これのほうがいいかもしれない。
山崎はと見ると、大きなカバンにいろいろ詰め込んで、すぐにでも逃げられる用意ができたようだ。
すると、ここを出ていくときにおれを開放するはずだ。まさかおれはこのままほっておいて出ていくことはないだろう。
最後の戸締りをしている。早くおれを出せ。山崎は檻のほうにきた。そして、出入り口を開けはじめた。
おれは急いで外に出ようとした。しかし、山崎はおれの首根っこを押さえて鎖をした。
まあ、いいだろう。以前言っていたようにおれをどこかの公園で解放するつもりならおとなしくしよう。
山崎はアパートの玄関から首を出してあちこち確認した。それから、おれを外に出すと、すぐにトランクに詰めこんだ。
おれはおとなしく暗いトランクにすわった。もうすぐ自由になる。どこの公園かわからないが、店からそう遠くないはずだ。
それなら、散歩でもしている人間がおれを知っているだろう。
明日からまた営業にがんばって売り上げのために貢献するしかない。
三人の悪党、特に山崎には世話になったと言っておこう。
きみはまだ若い。根っからの悪党ではなさそうだし、多分出来心で仲間になったのだろう。それは中岡にも言えそうだ。
中岡がきみのことを言えば、アパートはわかる。そして、きみはすぐに捕まる。
今ならそんなに罪にはならない。人生はいくらでもやりなおしができる、多分。
店の若い女性スタッフがよく言っている。おれは人間ではないからよくわからないが。
そんなことを思っていたが、10分たっても、20分たってもトランクは開かない。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(227)
「ユキ物語」(14)
どうなっているんだ。背中でトランクに体当たりをするが、びくともしない。
そう息苦しくはないが、何も状況が分からないのは辛い。やつはおれをどこで降ろすつもりだ。
車は坂道を登ったようだ。それから、スピードを出しはじめた。ぐんぐんスピードが出る。排気ガスのにおいがトランクに充満してきた。気持ち悪くなってきた。
そうだ。おれは車酔いする質(たち)だった。昔、あちこちの店に連れまわされたときはふらふらになったものだ。あれ以来のことだ。
しかし、どうすることもできない。車はそのまま1時間ほど走り、少しスピードを落とした後、ようやく止まった。
そして、トランクが開いた。おれは外を見た。近くに山が見える。見なれた風景ではない。ここはどこだ。
ここで解放されても店に帰れるのか。そう思っていると、「お疲れ。もう少しの辛抱だよ」山崎がやさしい声をかけてきた。
おい、まだ開放しないのか。おれは山崎をにらみつけた。山崎は鎖を引っ張って、おれを助手席の足元に入れた。
しかし、狭いことがわかったので、スペースを広げて食べものと水を置いた。
山崎には感謝しなければならないが、まだ気持ちが悪いので、水を一口、二口飲むことしかできなかった。
それより、おれをどこに連れていくつもりだ。証拠隠しのために、おれを山奥で殺したりはしないだろうな。油断はできない。
隙を見て逃げだすのも選択肢の一つにしてしておかなければならない。
そう思うと、少し余裕が出てきた。そこで、山崎はこれからどうするつもりだろうと考えた。
中岡がすべて白状すれば、警察はあのアパートを調べる。そうしたら、山崎のことはすぐわかる。山崎はそれを恐れてここまで逃げてきたのだろうか。
山崎は学生か仕事をしているのかは知らないが、まだ20代だろう。捕まったとしても共犯だから、そう罪は重くないはずだ。自首をしてやりなおすことが一番いいと思うが、そんな考えはないのか。
車はまた走りだした。田んぼや畑の間の道を進んでいくが、何かを探しているような走り方だ。古い車なので、「ナビ」というものがついていないようだ。
何回か車を止めては家を確認したが、探している家ではないようだ。
ようやく家を見つけた。玄関を開けて誰かを呼んでいる。しばらくすると、山崎と同じぐらいの男が顔を出した。
山崎が何か話していたが、しばらくすると、二人で車のほうに来た。
山崎は助手席側のドアを開けて、「これだよ」と言った。
その男はしばらくおれを見ていたが、「すごいじゃないか!」と叫んだ。
「これはどこの犬なんだ」とさらに聞いた。
「スイスだよ。多分」
「どうしたんだ」
「もらったんだが、都合でしばらく世話ができないんだ。それでおまえに頼もうと思って」
「いいよ。どのくらい」
「そうだな。2,3週間ぐらい。用事が早くかたづけば取りにくるから」
「了解。おれがいないときは、親やとしよりが世話をするよ。みんな犬好きだから喜ぶよ。最近、飼っていた犬が死んだから喜ぶよ」
「助かったよ。それじゃ、頼む」山崎は何か渡して去っていった。封筒のようなものだったから、おれの食費か。
やつらのたくらみが成功しても失敗しても、すぐに開放されると踏んでいたが、まさかこんな展開になるとは予想だにしなかった。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(228)
「ユキ物語」(15)
おれは若い男に連れられてその家に向かった。田んぼの間の細い道を行くこと50メートルぐらいで昔風の家が一軒だけあった。
玄関の左側に小屋らしきものがある。以前飼っていたと言っていた犬はここにいたのか。確かににおいがする。
若い男はおれをそこに入れて南京錠を占めた。それから、玄関をがらがらと開けて中に入っていった。
しばらくすると、若い男が出てきると、その後に母親のような女がいた。
男は、「これ」とおれを指さした。「へえ。すごい犬だね」と言った。
また玄関が開いて、二人の老人が出てきた。おれを見てから、「どうしたって?」とおじいさんのほうが聞いた。
男は、おじいさんに向かって大きな声で説明した。「ぼくの友だちがしばらく面倒見てくれと言っておいていったんだ」
「くれたのじゃないのか」
「くれてはいないよ。しばらくの間だけ」
「おじいさん。また散歩に行けるよ」おばさんが言った。
「でも、体が大きいから、引っ張られてこけでもしたらたいへんだよ」母親がおじいさんに言った。
「まあ、仲よくしてやったら暴れたりしない」
「しばらく隆に様子を見てもらいましょうよ」
「おとなしいからと言っていたけど」
「何か食べさせよう。そうだ。ロンのが残っていたからもってこようか」母親は急いで家の中に戻っていった。
他のものはずっとおれを見ていた。そのとき、近くで、クッ、クッというような音が聞こえた。何だろうとそちらを見ると、少し離れたところで、何かが動いていた。2,3いるようだ。
見たことがないものだ。体は真っ白で頭が赤いものがせせこましく動いていた。
これは何だろう。何か分からないが、おれより体は小さいし、ひ弱そうだ。
しきりに草を食べている。ときどきおれを見るためか檻の近くまで来る。
別に敵意はないようだ。店にいた鳥の仲間なのか。あいつらは隙があれば飛んでにげたが、こいつらはそういう気配はない。ただ、草を食べたり、砂をつついたりしているだけだ。まあ、こいつらのことは後で研究しよう。
まだみんなおれを見ている。ロンとかいうやつの残りものがおれの前に置かれている。しかし、おれはまだ車酔いが残っていて食べる気が起きない。
「ところで、この犬の名前は何というの?」母親が聞いた。
「あっ、忘れていた。山崎は急いでいたからな。後で電話するよ」
「そうしてちょうだい」母親はそう言うと家に入った。年寄り二人も続いた。
男はその場で電話をしたが連絡は取れなかった。それから、しばらくおれを見ていたが家に入った。
誰もいなくなると、また庭にいた鳥がおれを見に来た。よく見るとかなり大きい、店にいた鳥はこの10分の一ぐらいしかなかった。
庭は針金のようなもので囲われているが、どうして逃げないのか。ひょいと飛べばすぐに逃げられそうだが、5,6羽いる鳥はそういうことをしない。
ひょっとして飛べないのか。まさか鳥なのにそんなことはあるまい。まだ柵と柵の間に顔を突っ込んでおれを見ていたが、無視して一休みすることにした。
翌日早く、おじいさんがおれを散歩に連れていった。昨日はぐいぐい引っ張られたら困るようなことを言っていたが、おれのことが気になったと見える。
あれは逃げるつもりだから、今のところはおとなしくしなければならないので、おじいさんの歓心を買うようにした。
それで、朝はおじいさん、夕方は山崎の友人が散歩の担当だったが、不在の時は
、夕方もおじいさんと散歩をした。
散歩は、だいたい家を出てから、道を渡って山のほうに向かうことが多かった。山に沿って細い道が長々と続いていた。
町のように車道の横の歩道を通るよりは気道がよかったが、散歩しながら逃げる際の道を研究することはあまりできなかった。
山崎はあのまま行ったが、どこに言ったのだろうか。もし中岡がすべて白状しておれば、ボスや山崎のことはすべてわかっているはずだ。
金を取っていなくても脅迫か何かで捕まるだろう。それなら、山崎はまだ逃げているのだろうか。
警察が、山崎の家、つまりおれが今いる家に来ていない以上そうだろう。捕まったとしても、おれを開放したなどと言っていないだろうな。
誘拐が成功しても失敗しても、おれは助かると思っていたが、どちらにしても、こんなことになるとは。
とにかく、殺されたりしなかったことは儲けものと思うしかないのか。
このあたりで、おれのことは評判になったようで、学校帰りの子供らがおれを見にくるようになった。
もっと評判が広がり、テレビや新聞などおれのことを店が知るようになれば話は早いので、おれも子供らに愛嬌を振りまくことにした。
「ほんとにヘンな童話100選」の(229)
「ユキ物語」(16)
夕方の散歩には子供らがついてきた。おじいさんは車の行き来が激しい道から離れて山のほうに向かうことにしていた。山の手前には小さな川があったが、その土手沿いの道を散歩することにしていた。
子供らもそれのほうがよかった。道草をしながら歩けるからだ。車が通ることはめったになく、通っても野良仕事から帰る車ぐらいで、おじいさんや子供らを見つけると、わざわざ車から下りてきて、しばらくおじいさんと話した。
おじいさんも話好きだったので、散歩の途中で近所の人と話すのは何よりの楽しみのようで、話が終わるまで、子供らもおれもそこで待っていた。
普段は鳥の声や川のせせらぎ、あるいは、近くの竹藪を吹く風の音だけが聞こえる静かな場所であったが、おじいさんや子供らの話し声も別に耳障りではなかった。
みんな自然に包まれていることに満足していたからだろうか。ただ、近所の子供がついてくると、静かに考えごとをするのがしにくかったが。
ここで、おれはいつの間にか「ロッキー」と呼ばれるようになっていた。
おじいさんの孫である青年は山崎に何回も連絡を取ろうとしたのだが、まったく電話に出ないのでおじいさんの家族は困っていた。
しかし、すぐに山崎が引き取りに来るものだと思い、誰もおれの名前を気にしなくなった。
しかし、子供らはそれが我慢できないので、「ロッキー」と呼ぶようになった。
最初は違和感があったが、生まれてからおれはロッキーだと思うようにした。
「ロッキー、散歩に行くぞ」、「ロッキー、私についてきてね」という具合だ。
ある日のことだった。その日は学校で何かあったのか一人も子供がついてこず、おじいさんとおれだけが散歩に行った。
おじいさんも子供らがいないので気が楽になったようだ。
しばらくすると、おじいさんは川と反対にある竹藪に向かって止まった。おれは別に気にしなかったが、ちらっと見ると立ち小便をはじめた。
土手道では以前からおれの首からロープが外されていた。それのほうがおじいさんも楽だったようだ。
おれもそのへんをうろうろしながら、そのうちおじいさんはこっちに来るだろうと思っていたが、立ち小便はなかなか終わらなかった。
おじいさんの背中を見ていると、体がかっと熱くなるのを感じた。どうしたんだ?おれは自分にそう聞く前に体が勝手に動きはじめた。
おれは土手を川のほうに降りて浅い川を走って渡った。以前から分かっていた山道に入っていった。
おじいさんはおれが川を渡っているときにおれがいないことに気づいたようだ。
それからおれが川を渡っているのを見て、「ロッキー。戻ってこい。もう帰るぞ」と大きな声で叫んだ。
おじいさんがおれをロッキーと呼んだのは初めてだなと一瞬思ったが、おれは振り向くことなく、山道に飛びこんだ。
山道を登っているときも、おじいさんの声が聞こえた。ひょっとしておじいさんも、土手を下りて川を渡っているかもしれないと思った。おじいさんは杖がないと歩けない。どこかでこけていないか。それを考えると足が止まった。
今なら、少し遊んでいました。ごめんごめんという顔で戻れる。おれは迷った。
しかし、また心が決まる前に山道を登っていた。
しかし、おじいさんの叫び声はまだ続いていた。おれはおじいさんの声を振りきるように足を速めた。
道はだんだん狭くなり、足元に生えている草や落ちている木の枝で足がもつれた。
声が聞こえなくなったのを確かめて振り返った。少し暗くなっていておれが登ってきた道は分からない。心細くなった。おじいさんはまだおれを探しているののだろうか。
これは自分が選んだことだ。今更戻るのはみっともない。次にどうすべきか考えるだ。おれは自分にそう言った。その時ガサッという音がした。おれは体を伏せてそちらを見た。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(231)
「ユキ物語」(17)
しかし、誰もいない。音もしない。時々風が木の枝を揺らすだけだ。
おじいさんに頼まれたものがおれを探しに来たのかと思った。逃げるものは神経質になるものだ。少しの音でもどきっとする。それなら、風が吹いたときに木の枝が落ちたのだろう。
かなり暗くなってきた。心細くなってきた。いや。そうじゃない。暗くなれば、おじいさんや家族がおれを探すことはあきらめるはずだ。暗くなることは好都合だ。おれは自分にそう言い聞かせた。
おれはぼつぼつ降りようとした。数歩歩いたとき、おれの前に白いものがあらわれた。
何だ!おれは飛び跳ねた。その拍子に木の株にぶつかってひっくりかえった。
慌てて体を戻した。
そいつを見るとまだ動かずにおれを見ている。おれの無様な姿を見ていたに違いない。
おれはこのまま山を下りようとしたが、何気なくそいつを見ると目が赤い。
おれの慌てようを見て涙が出るほど笑ったのか。
おれは威厳を取り戻すためにか、「おい、どうした。親のところに帰らないのか」と声をかけた。
しかし、何も言わずおれを赤い目でじっと見ている。それならそれでいい。おれは山を下りよう。急いでいるのだ。
そして、そいつの白い体をちらっと見たとき、足が真っ赤に染まっているのが見えた。
「おまえ、けがをしているのか。歩けるのか」と聞いた。
そいつは何か言ったがよくわからなかった。聞き直しても同じことだろう。どうしたらいいのだ。
山というものに初めて上ったので、ここはどういう場所か分からないのだ。
スタッフたちが話していたのを必死で思い出してみた。そこには、いや、ここにはクマやイノシシ、シカなどがいて最近は町中に出てくると言っていた。
山には食べものが少なくなってきたので山から出てくるというのだ。しかし、葉っぱはそれこそ山のようにあるではないか。好きな葉っぱがないのか。それとも、
肉か。おれは目の前にいる小さなものを見た。こいつは食べものだ。
ライオンやトラは日本の山にはいないだろうが、ほっておいたら誰かに食われてしまうのか。
おれはそいつをじっと見た。そして、「おまえ。このままなら食われてしまうぞ」と言ってやった。
やつはおれが声をかけるたびに、おれの近くに来た。もうおれの体にくっつくぐらいになっていた。
そいつを見ながらどうしようかと考えた。そして、こいつを狙う大きいものが入り込めないような穴でも探して、そこに入れておこうと決めた。それで、おれに仕事は終わりだ。
おれは、そいつに「穴を探そう」と言った。おれは歩き出した。そいつはおれについてきた。確かにひどい歩き方だ。一歩歩くたびに腹を地べたにこすりつける。
これでは、狙われたら一巻の終わりだ。
そう遠くまで行けない。おれは、そいつに、「ここで待て。近くを見てくる」と言って、一人で探した。
あいつから離れてはいけないし、真っ暗になってはいけなしと必死で探した。
ようやく長い草の間に古くて大きい切り株があった。まわりを見てみると、洞(ほら)があった。神のご加護だ。
おれはここを確かめてから戻ることにした。しかし、あいつがいる場所が見つからない。
おれは大きな声を上げて、あいつの返事を待った。何度か繰り返して、ようやくあいつの声を認めた。
そして、ようやくあいつを洞まで連れてくることができた。おれの仕事は終わったが、こいつを一人にしておけないような気がした。
古株なので、大きいものがどんと力を入れれば中まで入ることができそうなのだ。それで、今晩はここでこいつと過ごすことにした。
正直なところ、すでに山は暗闇に包まれてしまって、河原はどちらの方向かわからなくなっていたこともあった。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(232)
「ユキ物語」(18)
おれはやつを奥に入れてから自分の体を尻から押し込んだ。これなら誰かおれたちに気づいても、なんとかこいつを守れるだろう。
そうは言っても、こんなことは初めてだ。仲間以外のものと戦ったことはない。いや、仲間とさえ喧嘩したことがない。おれを兄弟の一人と言っていたものがいたように、おれも兄弟がいたような気がするが、兄弟喧嘩の記憶はない。
数か月でおれはどこかに連れていかれたのだ。ペットショップでもおれに喧嘩を売るようなものはいなかった。だいたい小さいものばかりだった。
暗闇の中で不安を感じたが逃げ出すわけにはいかない。おれを頼っているものがいるのだ。
そこで、クマが襲ってきたと仮定してシミュレーションというのをしてみた。
クマはおれたちに気づいて、洞(ほら)の前で威嚇するだろう。しかし、震えてばかりいては相手がつけあがるばかりだ。そして、突進してこられたらおれたちはつぶされてしまう。
まず、おれは洞から飛び出して全力でクマの顔に体当たりする。クマは慌てて引き下がるが、怒っておれを追いかけまわすだろう。
おれは徐々に洞から離れるようにする。その間にウサギは一人逃げる。
それしか助かる方法はない。そうだ。明日ウサギにこの作戦を話して、近くで逃げ込む場所を探させよう。あのけがでは遠くまで行けまいのだ。
そんなことを考えている間に、昔スタッフ同士がおれのことを話しているのを思いだした。
おれはグレートピレニーズという種類のようだ。元々ヨーロッパの山岳地帯で牧羊犬や番犬として働いていたらしい。つまり、家畜を守るために、クマやオオカミと戦っていたのだ。
しかし、世の中の変化で、その役目も徐々に減ってきて、貴族のペットに成り下がったというのだ。
彼は昔の彼ならずという言葉がある。その末裔おれたちは、山を走り回ることだけでなく、クマやオオカミと戦うことなど親から教えられたことはない。
できないというだけですますことができなくなった。祖先の能力がおれのどこかに眠っていないか。そして、明日から少しは訓練したほうがいいだろう。
そんなことを考えている間に眠ってしまった。
どこかで鳥が鳴いているような気がした。鳴き声を聞いていると、ペット屋にいるような気がしてきた。売り物ではないが店にいたのだ。誰が持ってきたのだろう。
おれは目を開けた。しかし、目の前にあるのはペット屋の風景ではない。おれは目をさらに大きくして風景を見た。
そうか。ここは山の中だったのだ。徐々に昨日のことが思い出された。
それから、洞から出て中をのぞいた。白くて小さいものがいる。少し動いている。こちらを見ているようだ。
生きている。クマなどが来なかったのだな。おれはようやくすべてを思いだした。
そう思うと腹が減っているのが分かった。
今まで時間が来ておれの前に食べものがないのは初めてだった。ペット屋はもちろん、誘拐されたときも、おじいさんの家に行ったときも、そういうことはなかった。
その時、ウサギが洞から出てきた。おれは腹が減っていることを悟られないようにして、「夕べはよく寝られたか」と聞いた。
ウサギは何か言ったが、よく分からなかった。しかし、少し動いて、ここを見てというように合図をした。
おれはそこまで行き、草の根元を見た。紫色の塊がある。これは木の実か。
これは食べられるのかと考えていると、ウサギは食べはじめた。そして、おれにも食えというような合図をした。
おれは少し食べてみた。少し酸っぱいがまずくはない。おれは食べつづけた。
二人で食べおわってから、どうしてここにあるのだろうと思った。何気なく洞の足元を見ると、何かを引きずったような跡があった。
そうか。こいつはおれに食べさそうとして、多分朝早く起きて、おれと洞の隙間から外に出たのか。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(233)
「ユキ物語」(19)
空腹は少しおさまったが、気持ちはおさまらなかった。それはむしゃくしゃしたという意味ではなく、こんなことでいいのかという自分に対する苛立ちであった。
おれはウサギを見た。こいつと会ったときから気がついていたが、口を常にもぐもぐ動かして、赤い目でおれを見た。
こいつの他の仲間は知らないから、仲間はみんなそうしているのか、こいつの癖かは知らないが、何となく下品である。しかし、おれはこいつに助けられたのである。こいつを助けなければならないと考えていたのにである。
とにかく、こいつはおれのために朝早くから食べものを探していたのはまちがいない。
こいつが普通に歩けるようになると、おれは山を下りて、自分の家であり職場でもあるペットショップに帰ろうとしていたのである。
ウサギの足はまだ完治していないが、かなり動けるようになっている。このまま山を下りることはできる。
ボスや中岡、山崎が捕まっていようがいまいが、おれがペットシップに帰ると、美佳たちは涙を流して喜んでくれるだろう。
おれはおれと同じ純白のウサギを見た。相変わらず口をもぐもぐ動かして近くを妙な動きで動いている。
それを見ていると、このまま黙って山を下りるのは罪深い気がしてきた。ペットショップに戻っても、目覚めが悪いだろう。
しかし、自分やおれの食べものを探せるぐらいだからそう時間はかかるまい。
それなら、何も言わずにここを去るより、もう大丈夫だという姿を見てからにしようという気持ちが起きた。
おれは、おれを見たウサギに、「おまえが親や兄弟に会えるまでここにいるから、安心しろ」と言った。
ウサギは、おれの言うことが分かっているのかどうかは知らないが、おれを見て首をかしげた。それからまた妙な動きでどこかに行った。
おれも夜に備えて食べものを探すことにした。「腹は減っては戦はできぬ」誰に聞いたかは忘れたが、そんな言葉が浮かんだ。
おれも懸命に食べものを探した。しかし、下草ばかりで食べものなどどこにもない。ときどき何かにつまづいてこけるぐらいだ。おれはまた自分に腹が立ってきた。おれはないもできない。それを振りきるために無我夢中で食べものを探した。
目の前でごそっという音がした。頭を上げると、おれより体の大きいものがおれを見ている。
そいつはびっくりするような大きな目をしている。おれは最初ひるんだが、後ろ足に力を入れて、相手を見た。相手はおれの気迫に驚いたのかすぐに離れていった。
あいつはどこかで見たことはあるが、思い出せない。しばらくすると、シカという動物であることが分かった。さすがにペットショップにはいなかったが、どこで見たのだろう。子供の時、誰かがおれを動物園に連れていってくれたことがある。その時かもしれない。
とにかく、おれは食べものを見つけることができなかった。ウサギはすでに帰ってきていたが、洞の前には食べものが積まれていた。
おれはそれを少しいただいて寝ることにした。おれが洞に入るとウサギも隙間からおれの尻の奥に入った。
おれはこいつを守るのが仕事だ。食べものを探すことではない。おれは自分に言い聞かせて眠りについた。
ごそごそという音がした。おれはウサギがまた食べものを探しているのだと思った。何気なく目を開けるとまだ真っ暗だ。
おれは念のために体を奥に押し込んだ。やはりウサギはいるようだ。何かいるのかとあたりを見ていると。音は近くで止まった。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(234)
「ユキ物語」(20)
おれは体を低くして構えた。暗闇ではっきりとは見えないが、かなり大きい。
田舎で初めて見た牛ぐらいあるようだ。でも、牛は山にいるのか。
鼻息が聞こえる。それに獣くさい。よく見ると二つの目が鈍い光を放っておれの方を見ているようだ。
足が震えるのを分かった。攻撃は最大の防御だ。おれは弱気を払いのけるためにそう思った。まず相手を驚かすことだ。
おれは100分の1秒後には腹から声を出して、そいつの顔に飛びかかり、二つの目に爪を立てた。
さすがの怪物もおれの奇襲攻撃に驚いてひっくりかえった。そのまま木にぶつかったようで、ドスンという音がした。
しかし、これからが勝負だ。この怪物からウサギを離さなくはならない。
おれは、そいつに向かって激しく吠えた。もちろん、背後のほうを見てうまく逃げられるかを確認しながらだ。
案の定、怪物は怒り狂っておれを追いかけてきた。おれは様子を見ながら逃げた。
やつは夢中になって追いかけては木にぶつかり、またおれを追いかける。
おれもそう目がよいほうではないので、木で何回も体を打ったが、体が軽い分すぐに立ち上がることができた。
だんだんおもしろくなってきた。おれは時々やつの後ろに回って突然大きな声で吠えてやる。それから、やつから離れる。
やつの動きが遅くなっているのがわかった。そろそろゲームは終わりだ。
おれは耳を澄ませて様子をうかがった。まったく音がしない。やつは傷心して去っていったのだろう。
おれはウサギがいる場所に向かった。そして、洞に入ったがいない。どこかに隠れているのだな。おれの作戦はことごとくうまくいったようだ。おれは、帰ってこいと少し声を上げた。
しばらくすると、ごそごそという音がした。ウサギはどこからか帰ってきてから、おれの体に自分の体を寄せてきた。
おれも、「大丈夫だったか」と体を寄せた。何だか恥ずかしかったが、まあウサギが喜んでいるのなら我慢しよう。
「少し広い場所でやつを見たが、どうもクマという動物のようだった。あんな大きいものは、おれでもまともには勝てないぜ。何がいるかもしれないから、これからも気をつけよう」おれはウサギにそう言ってから、もう一度休むことにした。
翌日、ウサギが用意してくれた木の実などを食べたが、体中が痛い。もう一度眠ることにした。夕方になってようやく楽になった。
今後のことを考えた。ウサギもかなり動けるようになったからそろそろ出発しようと思った。おれとしても、ウサギを早く家族の元に届けなければならない。
しかし、どちらに行けばいいのかわからなかったので、ウサギに聞いた。
「きみの家族はどこにいるの?あっ、そうじゃない。家族はきみを探してあちこち動いているはずだね。家族と別れたのはどこなの。そこに行こう。きっときみのパパとママはきみと離れ離れになった場所に戻ってくるから」おれは精一杯やさしく言った。
ウサギは分かったようで、おれの言葉にうなずいた。それからあちこちを見た。
しかし、どちらの方向なのかはわからないようだ。
それはそうだろう。おれもおじいさんと散歩した河原がどこにあるのか分からないのだ。
それとクマと一悶着があったので、どちらが北か南かがさっぱりわからなくなっていた。
最前おれの祖先はヨーロッパの山岳地帯で牧羊犬や番犬として働いてきたと言った。
クマとの戦い方は少し男らしくなかったが、まあこんなものだろう。しかし、おれが今どこにいるかが分からないのは情けない気がする。
しかし、おれには祖先の本能があるはずだ。そう思って懸命に考えた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(235)
「ユキ物語」(21)
目をつぶっていてもなにも浮かばないので、あたりを見回した。しかし、大きな木や小さい木が重なるように生えているだけで、どの方向かなどは皆目分からない。
木の間から見える空には時々鳥がのんびり飛んでいるだけだ。これだってどうしようもない。
それなら、得意のにおいはどうだ。木や草の変わりだけだ。それはそれで気持ちがいいのだが、どこも同じにおいがする。
ヨーロッパの山を駆け回り、主人の財産である牛や羊を狙うオオカミやコヨーテに立ちむかった祖先のようには行かない。第六感はそう簡単には身につかないようだ。
おれはウサギに、「山のてっぺんまで行こうか。そこからあたりをみよう。
山が続いてるほうに行っても仕方がないから、その反対に行けば、きみの家族がいる河原のほうに行けると思うが、どうだろうか?」と聞いた。ウサギはうなずいたような気がした。
「よし。そうしよう。何か気がついたら言ってくれないか。おれは山については素人だから」
おれはウサギの様子を見ながら山を登った。もし登っている間にウサギがまた足を痛めたら登るのをやめなければならない。
しかし、ウサギはぴょんぴょんと軽快に登っていった。それを見ていると、早く親や兄弟に会いたいのだなと思った。とにかくこいつを無事に家族の元に戻さなければならないと自分に誓った。
登るにつれ山は木が少なくなり岩肌が増えてきた。もちろん岩のまわりには木が生えているのだが、遠くまで見渡すことができるようになった。
すごい風景だ。これはうまくいったぞ。おれは大きな岩を探して、その上から山の様子を見ようとした。
その時、頭の上を影が走ったような気がした。すると大きな鳥が岩の下に急降下したのが見えた。おれはそれに向かってジャンプした。
影は驚いて、ばたばたしながら空に戻っていった。どうやら大きな鳥だったのだ。
おれはウサギに、「おい。大丈夫か!」と声をかけた。動かない。おい。おい。おれは鼻で腹を向けているウサギの体をゆすった。
なんてことをしてしまったんだ。おれは後悔しながら、ウサギのまわりを回った。
なぜそうしたのか分からないが、また鳥が襲ってくるかもしれないと考えたのだろうか。
しばらくそうしていると伸びていた足が動いたような気がした。今まで誰にもしたことがないが、おれは足をなめた。しばらくすると腹が動くようになった。心臓が動くようになったのだ。それは生きていると言うことだ。
やったぞ。おれは体中をなめた。しばらくすると、ウサギは赤い目を開けた。それから、体をくるっと起こした。そして、赤い目でおれを見た。
「よかった」ウサギにそう声をかけると涙が出てきた。これもおれにとっては初めてのことだ。おれも泣くことがあるんだと分かった。
一瞬の間に鳥に向かって行ったのは、ウサギを守らなければならないという気持ちの表れだったのか。第六感とは感情をつかさどる場所にあるのかもしれないと思った。
ウサギもおれの体に自分の体を寄せてきた。どうも泣いているようだ。元々赤い目をしているので、よく分からないがその動きで分かった。
それから、まわりや上に注意しながら進んだが、今度は肝心の下にも注意しなければならない。
ちょうど、おれが嫌いなと言うか、多分初めて見たのに名前を知っていたヘビ、それもとりわけ大きなヘビがおれたちの前を通ったのだ。青くて臭いのが通ったときはおれは失神しそうだった。
でも、ウサギは気にしなかった。それより、「こんにちは」と挨拶するように近づいたのだ。
まわり、上、下に注意しながら、ウサギが襲われない岩場を探した。
そして、ようやく大きな木の下にある岩場を見つけた。ここなら、ウサギが襲われることなく山の状況を見渡しができる。
おれたちはそこでしばらく休んでから、時間をかけて河原がある方向を探すことにした。
そのとき、木の間から、馬でもないし、牛でもないものがこちらを見ているのに気づいた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(236)
「ユキ物語」(22)
「誰かいるぞ!」おれはウサギに叫んだ。さっきの鳥のことがあるから、襲ってきたときウサギをどう守るか考えた。
しかし、はっきりとは見えないが、そいつは獲物を狙うような表情をしていない。何か興味深々でおれたちを見ている。
ウサギはそれに反応したのか、一人でそいつのほうにぴょんぴょん向かった。
おれは止めようとしたが、そいつは枝の間から自ら出てきた。そして、ウサギの前に来て止まった。ウサギも怖がらずに挨拶をしているようだ。
おれはその様子を見ながら、山などの自然は、襲ったり襲われたりするだけでなく、まったくちがう種類のものがお互い認めあう場所でもあるのかと思った。
確かに、おれとウサギもいつの間にか一緒に行動する仲になった。
ただ、おれは自然育ちではないが、この二人は生粋の自然の中で生まれ育ってきたはずだ。
この馬でもないし牛でもないものはやはり子供だな。どこかあどけない表情をしている。
しかし、とりあえずおれは聞いてみた。「おれたちは山を下りたいんだけど、川があるほうはどちらか知っているかな」
そいつははしばらく考えていたが、自分についてこいというような仕草をした。それから、ゆっくり歩きだした。ウサギはすぐに動きだした。それなら仕方がない。おれもついていくことにした。
木と木の間、枝と枝の間を通っていく。蜘蛛の巣が顔にへばりつく。しばらく行くと、ピャア、ピャアというような小鳥の鳴き声のようなものが聞こえてきた。すると、そいつがいきなりその声のほうに走りだした。
何が起きたのか。おれも転びそうになりながらついていった。声はさらに大きくなった。そいつもそれに応えるように鳴いているようだ。
やがて動きが止まったように思ったとき、4つ5つの影が見えた。おれも近くまで行き止まった。
そいつより倍以上大きなものがこちらを見ている。おれよりかなり大きい。同じ仲間で大人だ。
しかも、耳のそばに裸の枝のようなものが乗っている。まさか体に木があるのか。そして、動いても落ちない。頭が混乱してきたが、とりあえずそれを忘れて、今しなければならないことをしようと決めた。
別に悪いことをした覚えはないが、おれはどぎまぎしながら挨拶した。「こんにちは。そこで知り合いましてね。道を聞こうとしたんですが、ついて来いというようなことだったので」
5頭の大人に囲まれるような状況になってしまったが、相手も別に怒っているような様子はないので、喧嘩することもないだろうと思って、ウサギに声をかけて戻ろうとした。
最初に会ったやつが大人と話をしていたが、すぐに、一人が、こっちへ来いというような仕草をした。
どうなっているんだ。おれたちは餌食になるのかと思った。しかし、様子はおかしい。大人は頭を下げて歓迎しているように見えた。
陽が少し傾きはじめていた。どうせまた寝る場所を探さなければならないのだ。相手もそう言っているのだから、そうしてみようと思った。それに、ウサギも喜んでいるようだ。
大人と子供の後をおっていくことにした。しばらく木の木の間を進むと、今度は、あまり木がないところを進んだ。まるで迷路だ。しかも、同じ山でも急な坂があるものだ。みんなから遅れはじめた。
大人が2頭来て、「もう少しです」というような言葉をかけてきた。それより、おれたちをどこに連れていこうとしてるのか。
目を上げると、あたりの山が下に見える。すごい景色だ。しかも夕日で赤く染まっている。少し休んで景色を見ておきたいが、こいつらはそんなことはする気がないらしい。ウサギだって、必死で動いている。おれはあきらめて、ときおりちらっと見るぐらいで足元に注意しながらついていった。
気がつくと木らしいものはなくて、大きな岩が広がっている場所に着いた。
「ここです」と誰かが言った。おれはうなずいてから、休んだ。
しばらく安くむと、「どうぞ」とおれを促したので、そちらについていった。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(237)
「ユキ物語」(23)
今までと違って背の低い木が生えていた。しかも、それもまばらになっていき、大きな岩がところどころあった。それに、道が狭くて登りがきつくなってきた。それより恐ろしいのは道の横は崖になっていて、足を踏み外せば落ちてしまう。足が震えてくるのが分かった。おれの祖先はこんな道でも走っていたのだろうか。
ウサギを見ると、枝を頭に乗せた連中に遅れまいと懸命に足を動かしている。
おれもついていかなくてはならないと思ったが、徐々に息苦しくなってきた。
大きく息を吸い込むときに、頭を上げて見るとまわりの山が下のほう見えている。
まさかこんなところまで来るとは思わなかった。ただ、山の麓に戻りたいと言っただけなのに。
そこには水があまりない川があり、ひょいと渡れば、おじいさんや子供たちと散歩に行った土手がある。そこから、おじいさんの家に戻るのではなく、町のほうに行く。
途中で迷っても、野良犬に道を聞けば、おれがいたペットショップに帰れるはずだ。
そういう魂胆でおじいさんから逃げたのに、ウサギに会ったばかりに、雲の近くまで来てしまった。
このままでは野垂れ死にするかもしれない。おれはウサギとともに戻ろうかと考えたとき、向こうから、また頭に枝を乗せたものが姿を見せた。かなりいるようだ。興味深そうにおれたちを見ている。
枝を乗せていないものもいるが、ほとんどが乗せている。このあたりではそれが流行っているのか。
いつの間にか背後にもいる。これでは逃げられない。息苦しいし、足を踏み外す恐れもある。
しかし、おれたちを取って食おうとする気配はない。とにかくもう少し様子を見るしかない。
やがて、道幅は徐々に大きくなり、大きな広場のような場所に着いた。まわりには同じように背が低い木が無数に生えていた。
案内したものは止まった。こいつらはおれたちをここに連れてきたかったのか。
すると、木の間からものすごい数の仲間が姿をあらわした。相変わらず頭には枝をつけたものもいるし、つけないものもいる。そして、おれたちを見ながら何か話している。
おれたちをどうするつもりか。今晩のおかずか。こんなに多くては一人分は少ない。
誰かが甲高い声を出した。命令でもしているのか。すると、おれたちのまわりを取り囲んでいるものが動き、間に空間ができた。
すると、そこに大きなものがあらわれた。同じ仲間に違いないが、頭の枝も大きく古そうだ。しかも、真っ白なひげが、地面に触れるぐらい長く伸びている。
おれたちを連れてきたものが、その老人に何か言っている。群衆も聞き耳を立てて聞いている。
やがて、その老人がゆっくりとおれたちの前に来た。おれもいつのまにか直立不動になっていた。ウサギも顔を上げて老人を見ていた。
老人は、「いかがされた?」と聞いた。えっ。えっ。他のやつが何を話しても、キーン、キーンというような音にしか聞こえないのに、この老人はおれに分るように言ったのだ。かすれた声ではあるがゆっくり話すので、「いかがされた?」と聞こえた。
おれの聞きまちがいかもしれないが、そんなことを確かめている暇はない。
おれは、どうしてここまで来るようになったか急いで話した。
老人はじっと聞いていたが、「道理でこのあたりで見たことのないはずじゃ。
わしらの仲間も最初おまえさんたちを見たとき、同じ仲間とは思えなかった。
しかし、仲よくしているので何かあるなと思っていたところ、山を下る道を教えてくれとのことじゃったが、わしらは山から出ることがない種類じゃ。同じようなものでも山から出るものもおる。
それで、わしなら道を知っていると考えて、こんな高いところまで来てもらったわけじゃ」
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(238)
「ユキ物語」(24)
おれは足が痛くてこれ以上我慢できなかったのでウサギを連れてどこかでひっくりたかった。
しかし、老人が頭を下げるのでそうするわけには行かない。こちらもきっちりと立って頭を下げた。
それにしても、ここまで来るまでの間、枝つきは仲間同士ではキーン、キーンなどという声で話をしていたから、どうようにおれとこいつらは意思疎通ができるのかと思ったが、老人が言っているのがちゃんと分かったのには驚いた。
しかし、おれが言うことが通じるかどうかはわからないので黙っていた。疲れてていることもあったが。
とにかく、こっちへ行けとかそこを下りろとか言ってくれれば、それでいいのだ。指示どおり行ってから、ウサギと休むことにしよう。
その時、「それでは、こちらに」にいうようにおれたちを案内するような声が聞こえた。
帰らしてくれないのか。おれは内心有難迷惑だと思ったが仕方がない。ついてきたおれたちが悪いのだ。
すると、低い木に囲まれた寝室のような場所に案内された。屋根までついていた。ここなら、ウサギは空から襲撃されることはない。それに晩餐付きだ。
ウサギはそれに一目散に走っていってがつがつ食べつづけた。何かの木の実だろうが、よほど腹が減っていたと見える。
おれに用意されていたのは、何かの肉のようだ。おれたちは急に来たのだから、日頃から用意されているものか。
おれも腹が減っていたが、とりあえず臭いを嗅いだ。腐ったりはしていない。
おれは少しずつ食べた。初めての味だ。まずくはないが、なかなかひきちぎれない。しかし、ありがたい。ウサギはと言えばまだ食べている。
今日はここで休むことにある。明日は山を下りよう。ゆっくりしていけと老人が言っても断ろう。そう決めると一気に眠たくなったようで意識がなくなった。
寒くなって目が覚めた。しかし、頭がぼっーとしていたので、どうしてこんなところにいるのか昨日のことを思いだした。徐々に思いだした。そうか。足が痛いのはそのためだったのか。
しかし、そんなことを言っておれない。今日はウサギの親を探してから町に帰る。
おれは外に出てみた。まだ薄暗い。遠くの山は雲のようなもので覆われている。雨か。しばらく見ていると、山の上が赤く染まってきた。
「これは太陽だな。すると雨が降ることはないな。でも、きれいなものだ。ウサギにみせたやりたいな」そう思っていると、がさがさと音がしたので振り返ると、ウサギが近づいてきた。
おれは、「ちょうどよいところにきた。そこを見てみろ。雲が真っ赤に染まっている。きれいだろ?」と大きな声で言った。
ウサギはと言えば、しばらく見ていたが、そう驚くような様子を見せていなかった。こんな光景は見なれているためか、それとも、自分の目が赤いために世の中がいつも赤く見えるためか分からなかったが、おれのそばでじっとしていた。
太陽はいつもの色になりはじめていた。その色を見ると、現実が頭に戻ってきた。「ウサギよ。今日からいよいよ山を下りるぞ。おまえの親も心配しているはずだから、がんばろうな」と声をかけた。
「ここにいましたか?」老人の世話をするものがあらわれた。
「朝日がきれいなので見ていたんですよ」おれは挨拶した。「そうでしたか。今日はいい天気ですよ。朝食の準備ができていますのでどうぞ」
おれは礼を言って寝室に戻った。そこには昨日以上に木の実や肉が用意されていた。おれたちが食べおわったとき、例の老人があらわれた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(253)
「ユキ物語」(25)
おれは、すぐに「おはようございます。この度はたいへんお世話になりました」と挨拶した。ウサギも立ち止まって、ピョコンと頭を下げた。
「おはよう。よく眠れましたかな」老人も骨ばった体をこちらに向けて言った。
「ありがとうございます。ゆっくり眠ることができました。それに、きれいな朝焼けも見ることができました」
「それはよかった。おまえさんたちは今から忙しくなるぞ」
「お名残惜しいですが、そうさせていただきます」
「申しわけないが一つ話したいことがある」老人はそう言ったので、おれは身構えた。
「おまえさんに興味を持ったのは、わしも同じような経験があるからじゃ」
おれはその老人の大きな目を見た。「子供のころ、毎日山を走り回っていたが、ときどきわしらとは姿形が違うものを見た。足が短くずんぐりむっくりしたものや、ものすごく大きな体でのっしのっし歩くものがいた。それらはイノシシとクマと言われていることは後で知ったが、世の中にはわしらとひどくちがうものがいることがわかった。
わしは広い世間を見たいという気持ちが強くなった。わしは友だちに、冒険しないかと誘ったがみんな断わった。
それで、世間を見てみたいという気持ちがさらに強くなったので、わしは一人で山を下っていった。
イノシシやクマと遭遇することがあったが、自分とちがうものと友だちになりたいと思って近づくと、そいつらはわしに向かってきた。それで無我夢中になって逃げたが、結局道に迷って山を下りてしまった」老人は少しいたずらっぽい目でおれを見た。
おれが驚いているのを見ると、また老人は話しはじめた。「木はほとんどなく、草ばかり生えている平らな場所だった。
早く山に帰ろうとしたが、またイノシシやクマに見つかってはいけないと思って注意しながら山に向かった。
細い道があったので、そこから山を登ろうとすると、奥から何かばたばたと下りてくるものがいるので急いで逃げた。しかし、わしを見ると、「シカだ、シカだ」と叫んでおる。余談ながらわしはこの世でシカと呼ばれているらしいと分かった。
とにかくわしは逃げたが、後から分かったが「たんぼ」という沼のような場所に逃げたので、わしは足を取られて動けなくなった。そこへ人間が追いついて捕まってしまった。
わしは縄で括(くく)られて人間が大勢いる場所に連れていかれた。
「これは珍しいシカじゃ」とわしを捕まえた人間より大きい人間が言った。
後から分かったがそれは大人というものだった。「珍しいから、しばらく飼っておけ」と大人が言ったので、わしは空いている牛小屋に入れられた。
翌日から多くの見物人がわしを見にきた。また、首に縄をつけられてあちこちつれまわされることもあった。
しかし、しばらくすると、誰も興味を持たなくなってきたが、さりとて放そうともしなかった。
わしは暗い牛小屋でただ耐えるしかなかった。徐々に痩せていった。
あるとき、牛小屋の戸が開き、誰かがわしをじっと見ていた。人間の子供だったが誰か分からない。しかし、外の光がその子供を照らしたとき、嘉助だと分かった。
その子供は知恵が遅れていたようで、みんなからいつもからかわれていた。
しかし、嘉助は何を言われようと怒りもせず、いつも笑っていた。嘉助が牛小屋に来たときは笑いもせずわしをじっと見ていた。
嘉助は毎日のように来た。わしも嘉助が来るのを楽しみにしていた。
あるとき、嘉助は牛小屋からわしを外に出した。そして、わしの尻を思いっきり叩いた。
わしは急いで山に向かった。そして山を登った」
老人は一気に話したのではぁはぁと息を切らした。それが収まると、老人は、「あんたは何と呼ばれているんじゃ」と聞いた。答えようとすると、「わしも嘉助と呼ばれていたんじゃ。シカの嘉助」と言った。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(254)
「ユキ物語」(26)
おれは、「どうして同じ名前なんですか」と思わず聞いてしまった。
ヤギの老人は、いたずらっぽい表情で、「わしが間抜けに見えたからじゃろ」と言った。
おれは、「そんな」と言うしかなかった。
「それはともかく、人間というものは、自分がこの世で一番賢いものだと思っているようじゃ。もちろん自然を変える力を持っているからそう思っても仕方がないが。
しかし、それもわずかなもので、大きな天変地異が起きれば人間もわしらもどうすることもできない」
突然話が難しくなってきたので、おれはうなずくしかなかった。すると、ヤギの老人は、「あんたは人間からどう呼ばれていたんじゃ」と聞いてきた。
少し躊躇したが、思いきって「ユキです」と答えた。
「ユキか」老人はそう言っておれを見た。恥ずかしさと後悔の念が一気に高まった。
「名前はありません」と言うべきだったと思ったとき、「きれいな名前じゃ。
名は体(たい)を表すというからな。しかし、今のおまえさんの体はひどく汚れている。
ウサギを早く親の元に戻して、また元のユキのような体になることを願って居る。時間を取らせた。早く行きなさい」
おれは頭を下げてその場を離れた。ウサギもついてきた。すると、3頭のシカが寄ってきた。
おれは会釈をして進もうとすると、1頭が、「長老から道案内をするように言われています」と言った。
「いや。大丈夫です」と言ったが、「しばらく案内します。危険な場所がありますから」と言った。
確かにここに来るときに岩と崖の間の細い道を通ってきたきたことを思いだした。
それに、おれ一人ではなく、小さいウサギもいる。おれは、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
おれは礼を言うために後ろを振り返ったが、長老と言われている老人の姿はなかった。
2頭はおれたちの前に1頭は後ろにいて、前に進むことになった。「危険なのは道だけでなく、危険な動物もいますから」ということだったからだ。それはそうだ。以前も大きな鳥がウサギを襲ってきたことがあった。
それで、とりあえずこの岩場を通り越すまではいてもらおうと思った。
しばらくの間ウサギの動きに合わせておれたちは順調に進んでいたが、ウサギが疲れてきた。
この岩場では仕方がない。おれは、「大丈夫か」と声をかけた。するとウサギは今までも以上に早く進む。こんな小さなものにも意地というものがあるようだ。
しかし、しばらく行くとまた動かなくなった。
シカもいるので、おれはこいつを自分の背中に乗せていこうと決めた。
それで、前足を折って「背中に乗れ」と言ったが、意地なのか意味が分からないのかおれの顔を見ているだけだった。
シカも、おれの背中や自分の背中に乗せようとしたが無理だった。
ウサギも早く山を下らなければならないことはわかっているので、本人の動きに合わすしかない。すると、ウサギはすぐに動きだした。
夕方になってようやく木が生い茂る場所に着いた。
「空から襲われるおそれはなくなりましたので、今日ははここらで休みましょう」とシカが提案した。
「そうですね」おれは承諾して、「ここからは二人で下ります」と言った。
「いえ。しばらく危険な道が続きますからもうしばらくいます。長老からは、『物事には自分が納得できるまで向き合わないとわからないものだ。その物事も、自分も』といつも言われています」と言った。確かにそれを実感することになった。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(255)
「ユキ物語」(27)
そこまでの考えを持っているのであれば断ることはできない。納得するまでついてきてもらったほうが安心である。
ただ、シカがいれば、ウサギが疲れても休むのを気兼ねするかもしれない。それで、ウサギの様子を気をつけてやろうと思った。幸い、その後ウサギは疲れることなく下りていった。
二日目の昼ごろ、先頭にいた2頭のシカが立ち止まった。おれもそれに合わせて止まった。ウサギも動きを止めている。
おれが、「何かあったのですか」と聞こうとしたとき、1頭のシカが首を斜め前に向けた。
おれはそちらのほうに耳を澄ませた。すると、がさっという音がかすかに聞こえた。
その日は朝から風一つない晴天だった。鳥の鳴き声がときおり聞こえるだけだった。だから、どんな小さな音も聞こえたのだ。
何かがいるらしいのは分かったが、それが何なのか、そして、何をしているのかは分からない。
今後は前2頭、後ろ1頭のシカに任せるしかない。すると、前のシカは抜き足差し足で動きはじめた。おれとウサギもなるべく音をたてないように動いた。
10分近く誰も一言も言わず、あたりに注意しながら進んだ。
鳥が鋭い声をあげた。おれはそちらを見上げた。すると、ガオーというような叫び声がしたかと思うと、何かがおれにぶつかってきた。おれは必死で逃げた。
しかし、ウサギのことを思いだしたのですぐに戻った。
すると、後ろにいたシカに大きな黒いものが乗りかかっていた。
クマだ!熊がシカを襲い、逃げようとしたシカがおれにぶつかったのだ。2頭のシカが、仲間を助けようと何回もクマにぶつかっていった。
しかし、クマはシカに噛みついたまま、ぶつかるシカを前足で払いのけた。
おれもクマの後ろ足に噛みついた。しかし、おれの体は宙飛んだ。何回も噛みついたが同じことだった。
「行きましょう」という声が聞こえた。おれは何とかできないかクマのまわりを回った。
だが、「早く、早く」という声でその場を離れざるをえなかった。
シカは飛ぶように下りていった。おれも必死で追いかけた。しばらく行くと突然止まったので、おれも転がりながら止まった。
シカは振り返って様子を見た。おれがそばに行くと「大丈夫でしたか」と聞いた。
「おれは大丈夫ですが、お仲間はどうなりましたか?」と聞いた。
「やつの餌食になったと思います」
「ほんとですか!」おれは叫んだ。
「首を噛まれていたのでどうすることもできません」
「そんな。助けに行きましょう」
「あなたたちを守るのがわたしたちの任務ですから、あいつのことは仕方ありません」
「それに、あいつはおれたちのために犠牲になってくれたのです。あのクマが当分わたしたちを襲うことはありません」
おれはその意味が分からなかったが黙ってうなずくしかなかった。
山はおれたちを優しく包んでくれるものだと思っていたが、山の中では今まで横にいたものが突然死んでしまうこともあるのか。そして、こんなことがよくに起こるのだろうかと不安になった。
「あなたの仲間を探しにいきましょう」
そうだ。あいつはどこに行ったんだ。まさか餌食になったんじゃないだろうな。
おれたちは警戒しながら戻ることにした。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(256)
「ユキ物語」(28)
しばらく行くと、前を行く2頭のシカが同時に止まった。おれも止まった。
しかし、何も聞こえない。シカを見ると、体はじっとしているが、耳は動いている。左右の耳が前を向いたり後ろを向いたりしている。左右別々に動くこともある。これで物音を感じているのだろうか。
山で生きるものにはこういう装置が備わっているのだなと感心した。
しかし、感心している場合じゃない。2頭のシカの耳はさらに激しく動いた。また黒い怪物が襲ってくるのか。おれは緊張した。
そのとき、1頭のシカがおれのそばに来て、「何かいたようですが、離れていきました」と小さな声で言った。
「それはよかった。それじゃ行きましょうか」と言うと、「いや。あなたはここにいてください」と答えた。おれが怪訝な顔をしていると、「仲間の様子を確認します」と言った。
おれは一瞬何のことかと思ったが、昨日襲われた仲間のことだなと思った。
多分無残なことになっているのだろう。それをおれに見せたくないのかもしれない。おれは、「わかりました。待っています」と答えて、体を伏せた。
シカはゆっくり進んだ。そして姿を消した。シカに気づいたのか、鳥が慌てて飛び出す音がする。
しかし、それが止むとまったく音がしなくなった。おれは自分の心臓が動いているのを感じていた。
風が出てきたようだ。遠くで唸るような音がしだした。自分がどこか別の世界に入ったように思った。
ガサガサがした。おれは立ち上がって身構えた。音が近くまで来たとき、シカが戻ってきたのが分かった。
おれが声を発しようとする前に、「ウサギを見つけました」と小さな声で叫んだ。
「いましたか。どこです」おれも小さな声で叫んだ。
「穴に落ちていました」と答えた。
「穴に」
「どうしていますか」
「動いていないようです」
「それじゃ、死んでいるのでしょうか」
「それもわかりません」
「すぐ行きます」おれはあいつがどうなっているのか知りたかった。
シカの後をついてくと、いわゆる獣道(けものみち)から離れた場所に入っていった。
「こんなところに逃げたのか」と思っていると、シカは止まり、ここですと教えるように首を動かした。
穴と言っていたから、おれはゆっくり進んだ。下草がまばらになると砂地が見えた。「ここか」と思って、おれは首を伸ばした。
直径1メートルぐらいの穴があった。ここに落ちるとはよほど運が悪かったのかと思った。
おれはさらに穴に近づいてから、足を踏ん張って体を伸ばした。深さは2メートルぐらいあった。穴の中はまだ光が十分届いてないので薄暗い。
おれは目を細めて中を見た。確かに白いものが見えた。「あれがウサギですか」
おれはシカに聞いた。
「そうです。私たちも何回も確認しました」
おれはもう一度穴の底を見た。体を横にして倒れているのだ。
おれは何度も「大丈夫か~」と叫んだ。しかし、身動きは全くしない。
無理だなと思ったがそれを言わず、「こんなところに穴が開いていたのですね」とシカに言った。
「昔雷が落ちたからでしょう。その証拠にまわりの木には裂けた跡がかなり残っていますし、穴も焦げた跡があります」
すごい推理力だなと感心した。それならばと考えて、「残念ながらあいつは死んでいると思います。私は一人で山を下ります。ありがとうございました」と言った。
2頭のシカはじっとおれを見ていたが、「それでいいのですか」と聞いた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(257)
「ユキ物語」(29)
おれは返事に窮した。死んでいるのなら仕方ないじゃないか。おれにどうせよと言うのか。
「死んでいますよね」おれは相手を見ながらゆっくり言った。
「確かに動いていません。しかし、ほんとに死んでいるのか確認できていません」と言った。
おれにそれを確認せよというのか。しかし、やつがいるのは3メートル下の穴の底だ。そこまで行けと言うのか。
しかし、やつはまちがいなく死んでいる。クマが襲ってきたとき慌てて逃げたんだろう。そして、運の悪いことにこの穴に落ちたのだ。その時、底にある石か何かに頭を打って死んだ。絶対まちがいないだろう。
おれはもう一度穴の底のやつの体をじっと見た。いくら見てもピクッともしない。やはりと思っていると、頭をむっこり起こしておれを見たように感じた。
まさか。そんなことがあるものか。それから、おれは目を閉じて頭を振った。それから、もう一度やつを見た。先ほど同じように体を横にしたままだ。
おれは喉がからからになっていたが、思いきって「あいつを近くで見てきたいのですが」と言った。。
1頭のシカは「そうですね。それがいいかもしれませんね」と答えた。
「でも、どうしたらいいでしょう。下りるのは何とかできても上がるのは難しいような気がします」
「どうしましょうか。少し考えましょう」シカはあたりを見渡した。雷が落ちたときに折れたのか枝があちこちあったが、どれも朽ちているようだ。それに、枝をどう使うのかは分からない。
とにかく、おれは町で生まれて町で育った。しかも、野良ではない。生きるために自分で何か工夫するようなことをしたことないのだ。
「穴に入ります」と大きな口をきいてみたもののやはりできそうにない。
情けなくなった。「やはり無理です」と言うしかないのか。
おれは天を仰いだ。すると、穴の近くにある大木の枝から何かぶらさがっているのが見えた。
おれは、「あれは何ですか」と聞いた。2頭のシカも見上げた。「あれは弦(つる)というものです。大木に巻きついて自分もどんどん上に上がっていく植物です」
「何のためにそんなことをするのですか」おれは聞いた。
「多分、他人の力を使ったら楽に成長できるのでしょうかね」
「なるほど。それなら、今度は私がそれを使うことはできませんか」
「なるほど」2頭のシカは前足を踏むならして言った。それはいいですねと言うことだろうか。
「ありがとうございます。しかし、かなり太いようですが切ることができますか」
「やってみましょう」シカは上を見ながら答えた。
穴と大木の間は2メートルぐらいある。それから穴の深さは3メートルある。
ただし、1メートルぐらいはジャンプできるので、4メートルの長さはいる勘定だ。
大木の直径は2メートルぐらいあるから、そんなに飛びつかなくてもいいように思えた。
シカもそのことを二人で相談していたようだ。それから、軽くジャンプできる場所にあるポイントを責めることにしたようだ。
最初はウオーミングアップというようなスピードだったが、徐々にスピードが上がり、最後はすさまじい勢いで二人は攻撃しつづけた。
おれは口を挟むことも手助けをすることできない。30分ほどすると弦は見事に切れていた。
休むことなく、弦を口に咥えて地面に下した。そして、穴に入れた。そして、「これでいけますか」と聞いた。
おれはあわてて、「いけます。いけます」と答えた。おれも急がなくてはならない。
すぐに穴に体を乗りだすと、恐怖感が襲ってくる前に、エイヤーとばかりに穴に飛びこんだ。
あいつの上に落ちないようにしたために、体が何回転もしたが壁にぶつかって止まった。
すぐにやつに声をかけてから前足で体をさわった。反応はない。
それから、何も考えずやつを口に咥えて、思いっきりジャンプして弦を持った。そこまでは覚えているがそれからまったく記憶にない。気がついたら、草むらに倒れていたのだった。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(258)
「ユキ物語」(30)
「ユキさん、ユキさん」という声が遠くで聞こえたように思った。
「ユキさん?」おれの名前を知っていて、しかも、さんづけをするのは誰だ。
おれは懸命に自分の頭の中を探した。美佳だ!自分の部下が近くにいないとき、おれをユキさんと呼んだ。しかも、おれにべったりくっついたのだった。
おれは店に帰ってきたのか!おれははっとして目を開いた。
しかし、目に映ったのはシカだった。おれを見ていた。おれは、すかさず「すみません。寝坊しました。すぐ行きましょう」とあわてて言った。
しかし、2頭のシカは、「ウサギが生き返りましたよ」と答えた。
ウサギ?そうだった。おれは穴に落ちたやつを口に咥えて思いっきり飛びあがり弦につかまった。そして、必死で上に向かったことを思い出した。
「生きていたのですか!」
「そうですよ。穴から上がったときは意識はなく冷たくなっていました。
とにかく何とかしようと二人で一晩中体を温めたら朝方血が通うようになりました」シカも興奮して言った。
「そうでしたか。やつはどこにいますか」
「横にいます」おれは思わず横を見た。
おれのすぐそばにいた。おれを赤い目でじっと見ていたのだ。
その姿を見ていると、急に胸が熱くなり、目から何かがあふれてきた。これが涙というものか。
店で若いスタッフが客に怒られたり、同僚同士で言い争いをしたりしたとき涙が出ているのを何度か見たことがある。まさかおれの目から涙が出るとは。
そして、こいつはおれを心配してくれていたのだと思うと別の感情が浮かんだ。
おれはこいつを穴の底に置いて、早く店に帰ろうと考えていたのだ。何という薄情者だと自分を責めると、また涙があふれた。
涙で滲んだやつをおれは抱きしめた。やつもおれのされるままにしていた。
シカはおれたちのことをじっと見ていたが、「少し休んでください」と言った。
おれは、「すぐ行きます」と言った。無性に動きたくなったのだ。
「でも、ウサギはどうですか」とシカが聞くと、やつは、体をぴょんぴょん動かした。
「それなら、ゆっくり行きましょうか」シカも笑顔で言った。
それから3日後、木の間から遠くの風景が見えるようになった。もちろん人間の町の風景だ。すると、この山が最後の山だ。ここを下りると野原や河原に出るのだ。おれは、ウサギに「もうすぐ野原だよ。家族が待っている」と言った。
やつはおれをうれしそうな顔で見上げた。そして、びっくりするような速さで下りていった。
やがて、野原が見える場所に着いた。ちょうど休めるような岩があった。
おれは2頭のシカのほうを向いて、「どうやら着いたようです。ここから二人で
行きます。遠くまでありがとうございました」と挨拶した。
シカは、「そのようですね。私たちが下まで下りると、大騒ぎが起きるかもしれませんので、ここで失礼します」と言った。
「それから、長老によろしくお伝えください。長老が教えておられるように、私も、物事や自分に正面から向き合って、生きていきます」
「わかりました。長老は、『おまえたちもユキさんを見習え。ユキさんは自分が大変なのに困っているウサギを助けようとしているのじゃ』と言っていました」
涙というものは道ができると流れやすくなるものらしい。また目がうるんできた。
おれはそれをさとられないように、「それじゃ。ここで失礼します」と頭を下げた。「幸運を祈ります」2頭のシカは去っていった。
それを見送ってから、ウサギに、「ようやくついたな。おまえもよくがんばった。
しかし、おまえがここを離れてから、多分10日以上たっている。
おれも全力を尽くすが、ひょっとして家族と会えないことがあるかもしれない。
それは覚悟しておけよ」と言った。
やつが理解したかどうかわからないが、おれがまず山を下り、野原に入っていった。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(259)
「ユキ物語」(31)
背の高い草が風で少し揺れているが、静かだ。心配していた子供の声が聞こえない。まだ学校から帰っていないようだ。好都合だ。
少し歩きまわったが、おれの足や体が軽いことが分かった。山にいるときは、上り下りで足に力が入った。夕方になると足がぶるぶる震えていた。
おれの祖先は、スイスの山をヒツジやヤギをオオカミなどから守るために一日中走りまわっていたと聞いている。
今もそういうことが行われているのかは知らないが、おれはそういうわけにはいかない。
おれや家族は故郷から遠く離れた日本で生まれ、ペットとして育てられたのだ。たとえ山暮らしに耐えられる遺伝子が体の奥に残っていたとしても、足腰を使っていなのだから仕方がない。シカのおかげで無事に下りてこられたのは幸いだった。
しかし、仕事が終わったわけではない。やつを無事に家族の元に返してやらなくてはならない。
もっともやつが迷子になったのはおれのせいではない。しかし、声をかけた責任は取らなくてはならない。
あのとき、おれが声もかけずに通りすぎていたら、やつは山を下りてすぐに親と会えていたかもしれないと思うからだ。
そうは言っても、ウサギというものの習性がわからない。迷子になった場所に家族は心配して待っているものか。それとも、子供の一人ぐらいいなくなっても何でもないものか。
そんなことを考えていても仕方がないので、ぴょんぴょん動きまわっているウサギに声をかけることにした。
「家族はおまえを探しているはずだ。おれはここで待っているから、ゆっくり探しておいで。何かあったら呼びにきたらいい」
というのは、おれがずっとついていたら、家族がいても近づいてこられないと思ったのだ。ウサギは一人でどこかへ行った。
おれは目立たないように、足を折って伏せることにした。もし見つからなかったらどうしたらいいのだろうか。これについて少し考えようとしたとき、太陽が上がってきたのか野原が温かくなってきた。草のにおいがしてきた。すると、眠たくなった。
おれは、「ママ、ママ」と叫びながらママを探した。確か兄弟は5人いた。人間で言うと五つ子だ。その中で、おれが一番弱虫だったような気がする。ママから一刻も離れられないのだ。
ママは、おれが叫ぶ理由がわかっていたようで、「あの子はもらわれていくのだけど、きっと幸せになるから大丈夫よ」と言った。
おれと一番仲がよかった兄弟が見知らぬ人間に抱えられていたのだ。その光景ははっきり覚えているけど、それからの記憶がまったくないのだ。
次の記憶はペットショップから始まっている。どうしてその間の記憶がないのか。その後起きたことはおれが耐えられないほどの衝撃で記憶が飛んでしまったのだろうか。おれは母親を思いだそうとした。
そのとき、横腹が押されるのを感じた。顔をそちらに向けるとウサギがいた。
おれは夢を見ていたようだ。「どうした!何かあったのか」何かに襲われたのかと思って慌てて体を起こした。
しかし、本人は穏やかな表情でおれを見ている。おれはまわりを見てみた。
すると、5匹のウサギが少し離れた場所で横に並んでおれを見ているではないか。
家族と再会したのだ。こんなことがあるのか。おれは胸が詰まって言葉が出なくなった。ようやく、「よかったな。家族で楽しく暮せよ」と言えた。
ウサギは何か言いたそうな顔をしていますが、家族のそばに戻った。それからすぐに家族は消えた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(260)
「ユキ物語」(32)
急に体の力が抜けた。またその場にぐったりと倒れてしまった。意識もなくなったようだが、今後は夢を見なかった。
しばらくして目が覚めたが、頭は働かないままだった。おれはあたりを見回して、
ここはどこだと思った。
それから、今までのことを懸命に思い出した。ようやくすべてがわかったので、「さて、どこへ行くべきか」と大きな声を出して自分に気合を入れた。
おれにはあいつのように待っている家族はいない。結婚でもして、子供ができたら急いで帰る家庭があるが、それは実現しそうにない。今家庭と呼べるのはあのペットショップか。
おれは、世に言う「看板犬」として働いていたが、別に不満もなく暮していた。
しかし、どこかの野良に、「おまえの弟が弱っていので一目会ってくれ」と言われた事の発端だ。
先ほど見た夢の中に、仲がよかった兄弟が出てきたが、それまで親兄弟のことはまったく忘れていた。いや、親兄弟というものが頭にはなかった。
それに夢は現実をそのまま投影したものではないことは犬でも分かる。怒りや悲しみ、恐れで出来上がっている。
とにかく、そいつに「あなたを兄弟と言っているものがいる。もうすぐ死ぬから一度会ってくれないか」と言われたから、少しだけと思ってペットショップを抜け出した。その時、おれを知っている人間が金目当てでおれを誘拐したのだった。
警察に追われたやつらはおれをこの近所の家に預けた。
おれは自分の意志で何かしたことを一つもない。犬であれ、人間であれ、まわりのものの意志で動いてきた。
ただ、それはおれやおれの仲間だけではない。ペットショップのスタッフも、「親が。『東京には行くな。地元の大学に行け』と言うのよ。どうして親の言うことを聞かなければならないの。わたしのことはわたしが決めるのが当然よね」などと言っている。
まあ、おれも自分のことは自分で決めなくてはならない。いや、今は自分で決めるしかないわけだ。
それなら、あのペットショップに戻るべきか。もし戻ることができたら、あいつらは涙を流して喜んでくれるだろう。
また、警察を動いていたから、おれが帰ると、「奇跡の犬」などと言って新聞やテレビで取り上げられるかもしれない。そうすると、人間が詰めかけ、売り上げが伸びるに違いない。
しかしだ。その後はどうなる。いつまでもそんなことは続けられない。いつかは誰かに買われていくだろう。そしてそこで死ぬ。それがおれの人生か。
死ぬときに、これはおれが望んだ人生ではないと後悔しても手遅れだ。
自分のしっぽを咥えて動き回る子供のように、ああでもない、こうでもないと迷っていても仕方がない。
おれは汚れに汚れた自分の体を洗うことにした。日が上がってきて温かくなってきたから、川の水もそう冷たくないだろう。
川が山のほうに曲がっている場所を探した。そこは木の枝で川の半分ほどが陰になっている。人目を避けるためだ。
子供たちはまだ学校から帰ってきていないが、そろそろ老人が散歩をする時間だ。
もしおれの世話してくれた老人がおれを見つけたら話はややこしくなる。おれはすぐに逃げることはできないし、声をかけられてもあの家に行くこともできないからだ。
しばらく水につかっていた。ペットショップで洗ってもらうようには白くならないが、かなり汚れは取れたようだ。それに、昔のように白いと町では目立ちすぎるのだ。
水を払うとすぐに土手に上がった。そして、ペットショップがある方向に歩き
だした。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(260)
「ユキ物語」(33)
急に体の力が抜けた。またその場にぐったりと倒れてしまった。意識もなくなったようだが、今後は夢を見なかった。
しばらくして目が覚めたが、頭は働かないままだった。おれはあたりを見回して、
ここはどこだと思った。
それから、今までのことを懸命に思い出した。ようやくすべてがわかったので、「さて、どこへ行くべきか」と大きな声を出して自分に気合を入れた。
おれにはあいつのように待っている家族はいない。結婚でもして、子供ができたら急いで帰る家庭があるが、それは実現しそうにない。今家庭と呼べるのはあのペットショップか。
おれは、世に言う「看板犬」として働いていたが、別に不満もなく暮していた。
しかし、どこかの野良に、「おまえの弟が弱っていので一目会ってくれ」と言われた事の発端だ。
先ほど見た夢の中に、仲がよかった兄弟が出てきたが、それまで親兄弟のことはまったく忘れていた。いや、親兄弟というものが頭にはなかった。
それに夢は現実をそのまま投影したものではないことは犬でも分かる。怒りや悲しみ、恐れで出来上がっている。
とにかく、そいつに「あなたを兄弟と言っているものがいる。もうすぐ死ぬから一度会ってくれないか」と言われたから、少しだけと思ってペットショップを抜け出した。その時、おれを知っている人間が金目当てでおれを誘拐したのだった。
警察に追われたやつらはおれをこの近所の家に預けた。
おれは自分の意志で何かしたことを一つもない。犬であれ、人間であれ、まわりのものの意志で動いてきた。
ただ、それはおれやおれの仲間だけではない。ペットショップのスタッフも、「親が。『東京には行くな。地元の大学に行け』と言うのよ。どうして親の言うことを聞かなければならないの。わたしのことはわたしが決めるのが当然よね」などと言っている。
まあ、おれも自分のことは自分で決めなくてはならない。いや、今は自分で決めるしかないわけだ。
それなら、あのペットショップに戻るべきか。もし戻ることができたら、あいつらは涙を流して喜んでくれるだろう。
また、警察を動いていたから、おれが帰ると、「奇跡の犬」などと言って新聞やテレビで取り上げられるかもしれない。そうすると、人間が詰めかけ、売り上げが伸びるに違いない。
しかしだ。その後はどうなる。いつまでもそんなことは続けられない。いつかは誰かに買われていくだろう。そしてそこで死ぬ。それがおれの人生か。
死ぬときに、これはおれが望んだ人生ではないと後悔しても手遅れだ。
自分のしっぽを咥えて動き回る子供のように、ああでもない、こうでもないと迷っていても仕方がない。
おれは汚れに汚れた自分の体を洗うことにした。日が上がってきて温かくなってきたから、川の水もそう冷たくないだろう。
川が山のほうに曲がっている場所を探した。そこは木の枝で川の半分ほどが陰になっている。人目を避けるためだ。
子供たちはまだ学校から帰ってきていないが、そろそろ老人が散歩をする時間だ。
もしおれの世話してくれた老人がおれを見つけたら話はややこしくなる。おれはすぐに逃げることはできないし、声をかけられてもあの家に行くこともできないからだ。
しばらく水につかっていた。ペットショップで洗ってもらうようには白くならないが、かなり汚れは取れたようだ。それに、昔のように白いと町では目立ちすぎるのだ。
水を払うとすぐに土手に上がった。そして、ペットショップがある方向に歩き出した。もちろん自分の人生は自分で決めるのだと自分に言い聞かせながら。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(261)
「ユキ物語」(34)
ただ、あたりを警戒することは怠らなかった。世話になったおじいさんがいれば、ペットショップに戻るという意思が鈍る。
しかし、午前中でじいさんどころか子供が遊びに来ていないので静かだった。
山の木々を揺らす風の音と鳥の声だけだ。もし、誰かがおれを追いかけてきたら
土手の横にある竹藪に逃げ込むと決めていたが、それもしなくてすんだようだ。
おれは速足で土手道を進んだ。おれは次のことを考えていた。土手道が終われば
車の往来が激しい道と交わる。じいさんとの散歩で知っていた。その道をどんどん進めばペットショップに戻れるはずだ。
しかし、「どんどん」と言ったのが、その道の左右どちらに行ったらいいのかは確信できなかった。もし反対方向に行けば地獄だ。ようやく土手道は終わった。おれは立ち止まって道の様子を見た。どうして迷うのか。おれを誘拐して身代金を要求した3人組は警察に捕まったが、一人山崎だけが逃げることができた。アパートに戻った山崎はおれを車に押し込んで知り合いの家まで逃避行したわけだが、最初はトランクルームに閉じ込められていたのでどの道を通ったか全く覚えはない。
2時間ぐらいたって、山崎はおれを気の毒だと思ったのか、後部座席に移してくれた。それからは外の風景を見ることができたが、同じような風景が続いていたので、目印になるようなものは覚えていないのだ。
しかし、じいさんの家はこの道沿いにあるから、山崎がこの道を通ってきたのはまちがいないであろう。
しかし、この道を右から来たのか左から来たのかはわからないのだ。
ここからすぐ右手に橋があるのはじいさんとの散歩で分かっていた。山崎の車で知り合いの家に行くとき車は橋を渡ったのかどうか。おれは懸命に記憶をたどった。
渡ったような気がする。まちがいないのか。おれは自分に問うた。渡った。それじゃ、橋を渡らなければ戻れないじゃないか。
おれはそう自分に言って不安を吹きとばした。よしんばそれがまちがいでも、今後目印があれば修正できる。今はそれがどんなものかわからないが。
腹をくくらなければ一歩も進めない。おれは右の橋のほうに進むことを決めた。
そちらのほうを見ると、橋を過ぎると道がぐっと左にカーブししている。それに道の左側の歩道が歩きやすいように見える。それなら、今道の向こう側に渡ったほうが一回の横断ですむというものだ。
おれは左右を見て道を渡ろうとした。道の半ばに差し掛かったとき、耳元でものすごい音でクラクションが鳴った。
おれは慌てふためいて後ろに下がった。すると、また別のクラクションが鳴り響いた。おれは飛び跳ねるようして元の場所に戻ったが、足腰が立たなくたってへたりこんだ。左右の車に近づいてきていたらしい。確認したはずだが、おれにはわからなかった。
心臓が落ち着いてきたので立ち上がろうとしたが、まだ足が震えている。それにしても、人間は人間でないものに対して、もう少し寛容の気持ちを持てないものか。鬼の首を取ったように思っているのか。
車を運転すると、日ごろおとなしい人間でも車を運転すると性格が変わるとペットショップのスタッフが話しているのを聞いたことがあるがこういうことか。
しかし、そうなのか。今の状況を見ると、日ごろ抑えている性格が車という武器を持ったために出てきただけじゃないのか。誰もが運転するとあんなことをするとは思えない。とにかく交通事故には気をつけなければならない。
おれは理不尽な怒りを心で整理してようやく自分を取り戻すことができた。
そして、細心の注意を払って向こうに渡ることができた。
そして、休むことなく進んだ。自転車で通る人間がおれを不思議そうに見ていたが、かまわず進んだ。
山崎の車では4,5時間でここについたので、おれの足では2日、遅くとも3日でペットショップに戻れると計算していたので気力は満たされていた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(262)
「ユキ物語」(35)
それからも休むことなく歩きつづけた。疲れはなく、どこまでも歩いていけるような気分だった。
車からおれのことを見て何か言っている人間がいたが気にもならなかった。
それに暗くなれば、白い毛でも目立たないから(かなり汚れてはいるが)、さらに距離を稼げるというものだ。
おれは大きな声で喜びを表したかったが、さすがにそれは止めた。どこに落とし穴があるかもしれないからだ。保健所に通報されることもなきにもあらずだ。
遠くで人だかりがしている。おれは少し立ち止まって様子をうかがった。車道にも人間がいる。大きな黒いものもある。どうやら交通事故のようだ。ここにも愚かな人間がいたのか。パトカーや救急車のサイレンも聞こえだした。
このまま行こうかどうしようか思ったが、君子危うきに近寄らずだ。そこで、裏道を通ることにした。
道は狭くなり住宅が広がっている。そのまま行ったがまるで迷路だ。とにかく自動車道に戻らなければならないから、それを意識していたが、どうも自動車道から離れて行ってしまうような気がした。
こんなことは他の犬には考えられないだろう。心配になって急ぎ足で自動車道に戻ろうとしたが、さらに迷ってしまった。
とにかく落ち着こう。おれは自分に言い聞かせた。この散髪屋は通ったか。あの角のマンションはどうか。見た覚えがるのなら、どちらから来てどちらに進んだか落ち着いて考えた。そして、ようやく自動車道に出ることができた。
ほっとして道の左右を見た。人だかりのあった場所からは相当離れているようだ。今は人間もほとんど見えない。
とにかく人だかりをうまく避けることができたが、この慌てぶりは我ながら情けない。自分に与えられた能力を生かすためにはもっと経験を積まなくてはならないことがよく分かった。今はそう反省して前を急いだ。
しばらく行くと道はまた別の自動車道につながっていた。これは右しかないだろうと思って、迷うことなく右の横断歩道で信号を待った。
しかし、気になるものがいた。茶色の仔犬だ。まだ生後3か月ぐらいだ。おれはペットショップにいたから大体わかる。
しかし、少し日が暮れるようになってきているのに一人でいて大丈夫か。
おれは気になって仕方がなかった。それで近づいたが、逃げていく。
多分母親か誰かが近くにいるのだろうと思って仔犬から離れた。ちょうど右の横断歩道が渡れるようになったので、進もうとしたとき、突然クラクションが鳴り響いた。おれは振り向いた。すると先ほどの仔犬が左の横断歩道、もちろん赤になっていたがそこを渡ろうとしていたのだ。それに気づいた運転手がクラクションを鳴らし、ブレーキをかけたが、もう手遅れのような距離しかなかった。
おれは無我夢中で仔犬に向かってくる車の前に飛び込んで仔犬を弾き飛ばした。しかし、おれの記憶はそこまでだ。おれは車にぶつかりかなり飛ばされたようだ。
しかし、誰かが、もちろん人間だが、おれを歩道に運んでくれたようだ。
目が覚めると数人の人間がおれを見ていた。「目を開けたぞ」という声が聞こえた。「おお。生きている」とか「よかった」、「早く医者に連れて行ってやれよ」などという声が続いた。
それなら、おれは生きているのだなと安心した。それで、長居は無用だと思って、立ち上がろうとしたが、体に力が入らない。それに体のあちこちが激しく痛む。
またぐったりと横になったが、幸い頭は元のままのようだ。それで、今の状況について考えを巡らした。ウサギといい、子犬といい、急いでいるにのどうしてこういうものがおれの前に出てくるのか。しかし、おれが相手をするからだと思うと自分に腹が立つた。
そのとき、誰かが近づいてきた。犬だ。そして、「ありがとうございました。おかげさまで子供は無事でした」と言った。仔犬も横にいる。
子犬のことは忘れていたが助かったのか。「それはよかった」おれはそう答えてから、「おれを助けてくれないか」と小さな声で言った。
「はい。何でも言ってください」と同じような小さな声で言ってくれた。
「この場からら逃げ出したい。しかし、体が動かない」おれは人間に聞こえないように言った。すると、「わかりました」と母親らしきものが答えた。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(265)
「ユキ物語」(36)
数人の人間がおれを心配して近くにいてくれたが、電話をかけるためかそれぞれ少し離れた。中にはおれの体を触って調べる者もいた。
「いくら美談でも、犬では救急車は来てくれないようだ」とか「このままほって帰れないよ」とか誰かと話している。
人間が電話に夢中になって、おれ一人になっていたとき、母親はまたおれに近づき、すばやくおれの体を調べた。
「顔から血が出ていますが、痛くありませんか?」と聞いた。
「痛い。しかし、我慢できないほどではない。とにかく前の左足に力が入らないんだ」
「そうですね。ぐらぐらしています。骨折だと思います」
「骨折ってなんだ?」おれはその言葉を初めて聞いた。
「足の骨が折れています」おれはとんでもないことになったように思った。
しかし、「おれを助けてくれないか」と頼んだが、おどおどした様子は見せたくないので、冷静に「治るのか」と聞いた。
「治ります。ただ、時間がかかります。完全に治らないうちに歩いたりすると、足が曲がったままになります。知り合いにうまく歩けなくなったものがいます」
「そうか。でもおれは急いでいるんだよ」
実際、「救急車が無理なら、おれが動物病院に連れていく」という人間があらわれたら厄介だ。ただ、おれの考えでは、おれに同情してくれる人間も、そんなことをしたら時間が取られるし、お金を請求されるかもしれないから二の足を踏むだろうとは思った。
「それなら、私のところでしばらくお休みになりますか?」母親はおれの心がわかったように言った。
「それはありがたいが、歩けない」
「何とかできます」
「ほんとか。でも、迷惑じゃないのか」
「とんでもないです。汚い場所ですが、だれにも邪魔されずに養生できると思います。それに、息子の命を救ってくださったからお礼をしたいのです」
「ありがとう。それじゃ、よろしく頼む」
母親は、おれのそばに近づいてから、「体を少し起こせますか」と聞いた。
おれは、右の前足に力を入れた。体が浮いた。すると、母親はすぐにおれの腹の右側からくぐり左側に出た。すると、おれの左側の足は母親の背中に乗った。
母親は立ち上がると、「さあ、ゆっくり歩きましょう」と言って歩きだした。
不細工な形になったが仕方がない。おれはぎこちなく歩き出した。
「こっちです」母親は歩道の外に出るように言った。そこは生け垣になっていた。
母親たちが行き来するためか、1か所隙間ができれいたので、難なく通ることができた。
しかも、暗くなってきたので、そこに入ってしまえば人間に見つからないだろう。
ただ、人間もおれが車にぶつかっていって仔犬を助けたことを賞賛してくれておれを助けようとしてくれているので、挨拶もせず姿を隠すのは少し気が引けたが仕方がない。
母親はおれのリズムに合わせてくれたので、休むことなく進むことができた。
家と家の間をすりぬけたり公園を横切ったりしながら、ようやくある家の前で止まった。すでに暗くなっているのに電気もついていない。空き家かもしれない。母親は、「ここで少し待ってください」と言ってからおれから離れた。そして、
「この人を見ているんだよ」と息子に言ってから、門扉の下をくぐってってから、立ち上がって門扉の錠をはずした。
また、おれを支えて入った。街灯などの暗い光で見ると、庭にはかなりの木がある。また、苔がびっしり生えているので、足には気持ちがいい。
しばらく行くと、庭の奥に物置のような小屋があった。背後に回ると小さな穴が開いていた。そこから中に入った。「着きました」母親はそう言って、おれをゆっくりおろしたが、おれはそのまま倒れてしまった。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(270)
「ユキ物語」(37)
おれは死んだように眠ってしまったようだが、耳元で何か聞こえてきた。
声のようだが、何を言っているかわからない。
目を開けて確かめようと思ったが、それができない。体に力が入らない。
そのうち、また眠ってしまったが、今度は「おじさん」という声がはっきり聞こえた。
えっ、あのウサギか。こいつはおれの言うことはわかっていたけど、言葉が出せなかったはずだ。ほんとは話すことができたのか。
おれは目をつぶったまま、「どうした。家族と仲良く暮らしているのか」と声をかけた。
「おじさん、大丈夫?」という声が続いた。
「静かにしなさい。おじさんはおまえを助けようとして車にぶつかったのよ。
ゆっくり休まなければ、けがが治らないの」と誰かが言っている。
「でも、おじさん、苦しそうに体を動かしているよ」
「まだお疲れなのよ」
おれが車にぶつかったって。そんなことがあったのか。思い出そうとしたが頭が痛くて考えられない。
何とか薄目を開けた。すると、何かがおれの顔を覗き込んでいる。じっと目を凝らしたら、あの真っ白なウサギじゃない。誰だ、こいつは。
おれはそいつを確かめようと顔を近づけた。「おじさんが起きたよ」そいつが叫んだ。「静かにしなさいと言っているでしょ」誰かが言った。
「ああ、すみません。うるさくして。おけがのほうはどうですか」
おれは思い切って頭を上げて声のほうを見た。そうだ。あれはこの声の主の背中にまたがるようにして、ここまで来たことを思い出した。すると、その前のこともはっきり浮かんだ。
子供を助けようとして、車にぶつかった。それからは覚えていないが、おれの体は飛んでいき、道路にたたきつけられたのだ。人間がおれを抱いて、歩道に運んでくれたと人間が話していた。幸い頭を打たなかったので命は助かった。
「まだあちこち痛くて起き上がれそうにない。もう少し時間がかかるようだ」
「ほんとに申しわけありませんでした。どうぞゆっくりしていってください。
食事はこちらで用意しますから」と子供の母親が言った。
「ありがとう。しばらく厄介になります」おれは答えた。
子供は母親とおれとの話をずっと聞いていたが、それに気づいた母親は、「どこかで遊んできなさい」と言った。
「いやだよ」
「いつも遊んでいる友だちの家に行って来たら。兄弟が多いから楽しいでしょ?」
「あいつはママに何でもかんでも聞くからつまらないよ」
「おまえが危ないことをしようと言うからよ。向こうのママが心配していたわ」
「近所を冒険するのが危ないの」子供は譲らない。
「昨日みたいなことが起きるかもしれないでしょ」
「でも、おじさんが助けてくれたじゃないか」
「おじさんがいなかったら、おまえは車にひかれていたところよ。おじさんに早く元気になってもらいたいでしょ」
「わかったよ。それじゃ行ってくる。おじさん、ゆっくり休んでね」子供は出ていった。
おれは横になりながら、母親と子供の会話を聞いていた。子供が自分の気持ちを言っても結局は親の言うことを聞くのだ。親も子供を守ろうとしている。
これが親子の情愛というものか。ウサギの子供を迎えに来た家族を見たときも感じたが、家族とすぐ生き別れになったおれは門外漢でその機微がわからない。
とにかくこの親子のそばにいて、それをよく見ておこうと思った。
その時、納屋の奥から誰かに見られているような気がしたが、まだ立ち上がれそうにないから見にいくことができない。
おれは頭を反対に向けて寝ていたが、どうも気になる。どうしようかと思ったが、思い切って、母親に「あそこに何かいるかな」と聞いた。
母親は、「よくわかりましたね。ネコが3匹います。父親も母親もいるのですが、
朝晩食べものをもってくるだけです。子供を連れていれば、足手まといになるので、ここにいます。3匹がずっと団子のように固まっています。
人間に見つからないように声を出すなと親が言ったようで、まだ小さいのにそれを守って、私の息子が声をかけてもまったく返事をしません。
もう少し大きくなったら、ここを出ていくでしょうから、わたしも気にしないようにしています」
ネコは、特に兄弟がいれば一日中ニャーニャーと鳴いているものだが、生まれて間のないときから親の気持ちがわかって一言も声を出さないということがあるのか。これも情愛のなせるわざなのか。おれはますます親子や家族がわからなくなった。
数日後、納屋のまわりが騒がしい。よく聞くと屋根も大きな音がする。まだ立ちあがることができないが、頭を起こして、聞き耳を立てた。どうも雨のようだ。それも叩きつけるような激しい雨だ。雷も納屋を震わせる。まだ外は暗いようだ。
ここにいれば困ることはないと思ってうつらうつらしていると、納屋の外でガタガタいう音がした。突然、ゴーという音がしたかと思うと雨が吹き込んできた。
すると、大きな影が入ってくると、おれの前でふらふらと倒れこんだ。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(271)
「ユキ物語」(38)
おれは思わず飛び上がって身構えた。しかし、相手は倒れたままだ。近くで寝ていた母親と子供はおれの後ろに来ていた。
「なんだ、これは!」おれは二人に叫んだ。「知りません!」母親も興奮して答えた。
おれは、「これは人間だな。ここの家主か」おれは少し落ち着いて聞いた。
「それはわかりません。ここで人間を見たことはありません」
そいつは倒れたまま身動き一つしなかった。厄介なものが紛れ込んで来たと思った。しかし、なんとかしなくてはならない。
「おれが見ているから、ゆっくり休みなさい」と言った。
二人は、「お願いします」と言って、自分たちが寝ていた場所に向かった。
風と雨はまだ衰えていなかった。特に風はときおりゴオーという音を立てて小屋を攻撃してきた。小屋が揺れたり、穴から風が入りこんできたりする。
今はどうすることもできない。おれは黒い物体を警戒しながら体を休めた。
いつの間にかうつらうつらしたが、すぐに目が覚める。そういうことを何回も繰り返した。
おれはそっと起きて、隙間から外を見た。風は少しおさまっているが、雨は降っている。暗闇が少し薄くなってきている。
元の場所に戻ろうとしたが、体が痛くて歩きにくい。闖入者に驚いて痛さを忘れていたのだろう。
しかし、物体はそのままのようだ。夜が明けたらこいつも動き出すだろう。それまでの辛抱だ。
母親がおれの近くに来た。「ありがとうございます。お休みになれましたか?」
「少しは休んだ。今までこんなことあったのか?」
「いいえ。ここに来て半年ですが、こんなことは初めてです」
「そうだろうな。こんなことがあればここにはおれない」
「そうです。この子が生まれそうになって静かな場所を探したのですから」
「わかった」
「ここを出ましょうか」
「こいつの様子を見てから決めよう」
それにして、こんな騒ぎの中でも、隅にいるネコの子供3人はまったく声を出さない。母親の躾とはすごいものだ。
物体を見ると、どうも体がぶるぶる震えているようだ。そして体を丸めるような仕草をする。寒いようだ。大雨で体が冷えたのだろう。やはり、この家の持ち主ではなさそうだ。
起きていた子供が物体に近づいた。母親は、「戻りなさい」と低い声で命じた。子供はおれの横に来たが、物体から目を離さなかった。
母親は昨夜のうちに集めておいた朝食を持ってきた。こいつを追い出す前に腹を満たしておくことは賢明なことだと思って食べることにした。
おれたちが食べているとき、匂いに感づいたのか物体が体を起こしたのが見えた。
顔はっきりわからないが、腹が減っているのか、そいつがこちらの動きを見ているのがわかる。
おれは気になって仕方がなかったので、小さな肉の塊をくわえて、そいつの前に置いてやった。すると、すぐに手に取って、うまそうに食べた。
そのとき、こいつはホームレスという人間だと分かった。そう思うと確かに痩せている。それにかなりとしよりだ。もう少しおれの分をやることにした。
また子供はそいつに近づいた。ホームレスも子供に声をかけて遊ぶようになった。
おれたちに害を与えないようだが、雨が止んだら仲間の元に行くだろうから、もう少し辛抱するしかない。外は静かになった。しかし、こいつが出ていく気配はない。
一度立ち上がって外に出たことがあった。これで厄介者はいなくなったと思っていると、しばらくして戻ってきた。どうやら用を足しに出たらしい。
母親は心配そうにしている。多分、こんな人間がいるのが分かったら、この家の持ち主が黙っていないはずだと考えたのだろう。
おれも同じように思ったので、「こいつがまだいるのなら、どこか探そう」と言った。「もう少しで体が自由に動くようになるから」
母親はうなずいた。それくらいはしなければならない。おれが子供を助けたのが発端だが、世話になったのはまちがいないからだ。ホームレスは子供と遊んで一日中過ごすようになった。おれたちから離れて、ミャーとも言わない3匹の子ネコも隅から出てきて、ホームレスと子供の様子を見るようになった。朝晩だけ食べものを持ってくるネコの母親も許したらしい。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(272)
「ユキ物語」(39)
雨は数日降っていたが、徐々に小降りになった。ときおり日が差してきた。
老ホームレスも、用を足すために外に出るので外の様子はおれたちよりわかっているはずだから、雨宿りがすめば出ていくと思っていたが、ずっとここにいる。
まるで自分の家のように構えている。母親が食べものをやるので何の心配事もないのだ。子供も遊び相手ができたので、外に出ないで老ホームレスとずっと遊んでいる。おそるおそる近づいてきた3匹の子ネコも、兄弟で飛び跳ねるようになった。
おれは横になってそれを見ていたが、ホームレスが出ていかないのなら、おれが出ればすむことだと思い至った。
それで、今のうちにリハビリというやつをやっておこうと思った。ホームレスが突然入ってきたときは思わず立ちあがったが、意識して立ち上がったことはない。
もちろん這うような姿勢で歩けるが、以前のように走れるかどうかわからない。
今から走るんだと気合を入れて立ち上がった。しかし、まだどこか庇(かば)っているような感じだ。しかし、どこかが痛いということはない。それを何回も繰り返すと体と気分が楽になってきた。
おれのリハビリを見ていた母親が、「無理をしないでくださいね」と言った。
「どこも痛くない。かなり回復しているように思う。それにこんな邪魔者がいるかぎり、用心しておかなければならないだろう」とホームレスのほうに目をやった。
「確かにそうですね。人間ですし」
おれは、早くペットショップをめざすためということを言わずに、この場を取り繕るためにそう言った。
ホームレスはおれが人間の言葉を解しないと思って、もちろんおれを知らない人間はほとんどそうだが、大きな声でよくしゃべる。よほど会話に飢えた生活をしてきたのだろう。
「ここは極楽じゃ。食べものもイヌが運んできてくれる。よくできたイヌだ。
この子もわしを気に入ってくれている。しばらくここにいようかの」などと自分の気持ちを言っている。
また、「あいつらのことは絶対許せん。今度会ったら必ず殺してやる」などと物騒なことを言うこともある。
おれは母親に、このホームレスがどういう人間か教えるために、独り言の内容を教えた。
「誰でも他人に言えないことを思うことがありますが、それを実行することはほどんどありません」と答えた。
母親は、イヌだけでなく、人間の心理をよくわかるらしい。おれは自分が恥ずかしくなった。
「こいつが出ていかないのなら、おれたちが出ていくことも考えておこうじゃないか」おれは強引に自分の考えを主張した。
「そうですね。でも、どうしたらいいのでしょうか」
「おれが探すよ。そのためのリハビリだ」うまく話がおさまった。
「お願いします」母親も如才なく言った。
二日後の朝、また納屋の戸が開いた。おれは何気なくそちらを見たが、二つの影があった。人間だ。
もちろんおれは身構えたが、二人は中に入らずに、薄暗い内部をずっと見ている。そして、「何かいますよ」と一人が叫んだ。相手は、「えっ!」と言った後、「野良犬か」と答えた。それから、「じゃ、準備ができたら、ここを最初につぶすか」と言った。それから、納屋の戸を閉めて出ていった。
母親と子供がおれのそばに来た。「聞いたか。すぐに出よう」と言った。
「人間は見つからなかったようですね」と母親が聞いた。
「端の方で寝ていたからな。それに、枯れ木のような体だから、材木と間違えたかもしれない。もしあいつが見つかっていたら、話がややこしくなっていただろうな」
「それなら、人間やネコはどうしますか?」
「ネコは母親が食べものを持ってきたとき、家の気配で子供を連れていくだろうし、人間は今寝ているが、大きな音がしたら外に飛び出すはずだ」
「もう行くのですか」
「そうだ。でも、ちょっと見てくる」おれは外に出て、様子をうかがった。すると、数人の職人が何かを運び入れている。
そして、母屋の玄関や縁側の雨戸が開けられているのがわかった。何か騒がしいなとは思っていたが、まさかこんなことになっていたとは。
おれはすぐに納屋に戻り、「もう時間がない。すぐに出よう」と叫んだ。
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「ほんとにヘンな童話100選」の(273)
「ユキ物語」(40)
「何かあったんですか?」母親は不安そうにおれの近くまで来た。
「工事の準備が終わりそうだ。家をつぶすのか修理するのかはわからないが、家の中のものを運びおわった。どちらにしても、納屋はつぶすと言っていたから、次は納屋に職人が来るかもしれない」
「わかりました。出るしかありませんね」母親はそう言うと息子を急がせた。
「ネコや人間はどうするの?」息子は聞いた。
「大丈夫。おじさんが考えてくれているわ。ネコはもうすぐママが食べものをもってくるから、様子を見て一緒に出るはずよ。もし私たちと一緒に出たら、子供がいなくなってママは心配するでしょう。
人間も目が覚めたらおかしいと分かるからここを出ると思うわ。それに、納屋を壊すのも同じ人間だから、私たちが心配することはないの。それじゃ、行きましょう」母親は納屋の外に出た。
子供はそれでも振り返っていたが、母親の後を追って外に出た。おれも急いで外に出た。母屋と反対のほう出て様子を見ながら進んだ。
幸い工事用の道具が山積みにされていたので、母屋で仕事をしている職人には見つからない。
「よし。今だ」おれは親子に言って家を離れた。しかし、どこに行くかはおれには判断できない。母親に任せるしかない。母親はすぐに左に向かった。
おれは自分の足を確認した。どこかぎこちないが、しばらくは大丈夫だろう。どこかに落ちつけば自分の仕事は終わりだ。
ただ、母親は迷っているようだ。左右に道があれば、どちらかに行くべきか、あるいはまっすぐ行くべきか考えている。おれは母親の判断に従うのみだ。
母親がおれに話しかけてきた。「今思い出しましたが、しばらくすると公園があります。確か公園の奥に災害用の道具がおいてある倉庫があったはずです。
そこならゆっくりできると友だちから聞いたような気がします。昔のことで、今はどうなっているかわかりませんが、そこに行ってもいいですか」と聞いた。
「行こう」おれはすぐに答えた。母親は、「ただ、いつも誰かがいるようなので、入れるかどうかわかりません」と念を押した。
「とにかく行こう。その時はまた考えよう」おれは母親を励ました。
ようやく公園に着いた。すぐに何本か木のある場所に行った。倉庫は向こうの林の奥にある。確かに道からは目立たない。
「あれだな」
「そうです。後ろの壁に割れ目があってそこから入れると聞きました」
「よし。見てくる」
「誰かいるかもしれませんから、気をつけてください」
「わかった。ここで待っていてくれ」
かなり大きな倉庫だ。おれは後ろに回ってみた。確かに幅20センチ、高さ50センチぐらいの割れ目がある。完全には割れていなくて、押せば入れるようだ。それで、人間にはわかりにくいようだ。
おれは力を込めて割れ目を押した。すぐに入れた。しかし、誰か出てくるかもしでないと警戒したが、それもない。
おれは内部を見た。もちろん照明がないので暗いが、後ろの割れ目や表の出入り口から漏れてくる光で大体の様子はわかる。
左右の壁は天井近くまで棚になっていて、災害道具とやらがびっしり入っている。床にも段ボールが積まれている。
広いと思っていたが、中はかなり狭い。右隅に机がある。おれはそこに行った。机の下の床には毛布が敷かれている。かなりのものがここを利用したと思われる。しかし、最近誰かがいたようには思えない。
おれはすぐに表に出て、親子を呼んだ。
「今は誰もいない。次が見つかるまでなら大丈夫だろう。もちろん急いで探すが」
「ありがとうございます。助かりました」
全員で倉庫の中に入った。机の下に入ってみたが、3人で寝てもかなり余裕があった。
しかし、ここは豪華ホテルというべき場所なので、誰かが来る可能性がある。明日から一人で探そうと決めた。
数日はおれが出かけたときは母親が子供を見て、母親がいないときはおれが見た。
まるで家族のようだと思ったが、ここまで来たからには親子を助けなくてはならない。おれは安住できる場所がないか歩きまわった。
四日目の深夜、ドンという音が聞こえた。おれはすぐに立ち上がった。おれたちの出入り口から誰かが入ってきたのだ。おれはそちらに向かった。