それぞれの春

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「それぞれの春」
会社の前が小学校と中学校の通学路になっているので、世の中の移り変わりがようわかる。
新小学生と新中学生は、制服のピカピカさ加減と着方で分かるが、きょろきょろする様子からようわかる。何でも見たいんやな。
せやけど、大きくなるにつれて見んようになるので、京大や信州大の学長が、入学式で、「スマホを止めて、世の中をもっと見ろ」と訓示したそうな。
せやけど、「見たからおまえを逮捕する」とゆわれる人間もいる。それも、10、20代よりも、40代、50代、60代もいる。
職業も、役人、警察官、教師、坊主もいる(懲戒解雇でもなったら、もう少しでもらえる退職金がパーや。それに、近所も歩けんほど恥ずかしい思いをせんとあかん)。
やっぱり盗撮ゆうもんは魅力的なもんやろか。1万円ほどで、本来の目的はすぐに達せられるのに、どうして自分の人生を棒に振るような危険を冒すのかようわからん(ちょっとあやふやにしといた)。そんなのは不純な動機やと声を大にしてゆいたい(大にしなくてもええか)。
不純な動機とゆえば、フィリピンで12000人以上を相手にしたゆう元校長や。本来の目的のためやったら、1日10人はおかしい(10代から70代に渡って)。無理無理。
全員の写真が残っているらしいが、みんな番号が振ってあるんやと。つまり、切手やコインの収集なんや(脚本家のジェームス三木がお相手したタレントや歌手の陰毛を収集していたのと同じことなんや)。目的がちがうのや。
子供の心は純粋や。そして、見ることが、手段ではなく、目的や。見ることに努力を惜しまない。
近所の悪がきが、小さいのに、「おまえと子のお姉ちゃん、風呂から上がったラどんな格好している」とか聞いたもんや。
「シュミーズ(あるいはドロースやったか)で、テレビを見ている」とか聞くと、悪がき全員4,5秒は気絶したと思う。
高校のとき、駅から自転車やったけど、仲間にませたやつがいて、ある場所になると、いつも、「さっき入っといて」ゆうたもんや。
あるとき、「何で止まるねん」と聞くと、「クラスの女の子の家に、どんな洗濯もんか干してあるか見とるねん」ゆうとった。
警察官の息子であるそいつから、「金瓶梅(きんぺいばい)」とゆう本を借りたりしたが、そいつの行為は、盗撮のおっさんやフィリピンの校長とちごうて、大人になるための純粋な動機から出ていた(区別がつきにくいが)。
とにかく、見ることは生きるエネルギーになる。昔、家の前の道路で大きな工事したことがあったが、近所のおじいが毎日見ていたことがあった。
「何がおもろいねん」と思うたが、ガス管か水道管を埋めるための大きな穴は、非日常やったんやな(そうゆえば、ぼくも、小学生の頃、京都の親戚に遊びに行くと、阪急電車を四条河原町まで行かすために、四条通りを掘っているのを見ていた)。
そして、あのときのおじいより年を取ったが(多分)、ぼくも今見ているものがあるわ。
イオンの休憩コーナーの前にあるクレープの店や。一番近くの席にすわって、人待ちしているようにして、おにいちゃんやおねえちゃんがクレープを作っているのを見る。
まず生地を鉄板に乗せて焼いて、クルッと反対にする。それから、具を入れて、クルクル舞いとる。最後に、最後に、クレープを入れた袋の下をクルっと回す。かっこええやんか。
特に、竹とんぼみたいなもんで、手首を返して生地を均等に伸ばすところがええ(医者が手術の流れを手でシミュレーションするように、ぼくも、クレープ生地を薄く丸く手短に焼くシミュレーションをしている)。何百回も見ているから、「大人のキッザニア」があれば、絶対優等生になれるはずや。
多分、「あのおっさん、またこっち見ているで」、「ほんまや。一回ぐらい買うたらええのに」とか話しているやろな。
そうやねん。食べたことないんや。会社のスタッフから、「あんなもん甘いだけや」ゆわれているし、じじい一人でクレープを食べるのもなんやしな。
去年、京都の新風館とゆうショッピングセンターに行ったときのことやけど、楽団が音楽をやっていて、突然観客のアベックの女の子が舞台に上げられた。しばらくすると、音楽がさらに鳴りだし、男のほうが舞台の袖から出てきて、プロポーズをした。女の子は泣きだすとゆう塩梅やけど、テレビでは見たことがあったが、実際見たのは初めてやった。
見ることに汲々しているよりは、見えるほうが感動することがあるかもしれん。
盗撮するよりも、風がひらり・・・。若いもんにはわからん境地かな。誰にとっても、新しい春が来た。

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