舌を抜かれた男

   

舌を抜かれた男

ぴーひょろぴーひょろ。とんびがのんびり空を回っています。
治助は仕事の手を休めて空を見上げました。朝早く野良仕事をはじめたときはまだ雲が多かったのですが、それもすっかり消えて、お日様がまぶしいほどです。
遠くの山に残っている雪が輝いています。
「治助。少し休まんかのー」遠くから母親のよしの声が聞こえます。
一緒に仕事をしていた母親は妹のまつに乳を飲ませるために先に畦道に戻ったようです。「そうするか」治助も鍬を担いで畔のほうに行きました。
そして、汗を拭いて冷たいお茶と干し柿を食べました。春霞の向こうに村の人が働いているのが小さく見えます。
治助は父親が残してくれた畑を見て、今日中に終わらせれば村の衆についていけると思いました。
そのとき、「治助。こんな書物を読むか」という声がしました。
振り返ると、村の仁吉です。父親の孫助と仲がよかったのですが、去年父親が突然死んだ後、治助たちを気にかけてくれていました。
仁吉は風呂敷に包んだ書物を大事そうに持っています。
治助はまだ8歳ですが、誰から教えてもらったわけでもないのに読み書きができ、しかも、読んだ内容をすべて覚えているのです。
村の大人は、「治助は神の子じゃ」と大騒ぎしました。しかし、村の庄屋は、「このことは村の外でしゃべってはならぬ」と命じました。
もしこのことが分かったら治助を金で連れていこうとするものがいるかもしれないからです。
母親のよしは、「仁吉さん。今は忙しい時なのにいつもすみません。何もお礼ができなくて」と頭を下げました。
「そんなことはどうでもいい。わしの家には子供が大勢いるので野良仕事は心配ない。
この書物は庄屋に頼まれてある大店(おおだな)の旦那から借りてきたものじゃ。
何でも、唐(から)の偉い人が人の生き方を書いた書物らしい。
旦那も治助に読んでもらって書いてある意味を教えてほしいと言っておった。それで、そのお礼にこの菓子を渡してほしいそうな」と懐から包み紙を出しました。
治助は風呂敷に包まれた書物を受けとって頭を下げました。「治助は神童じゃ。村には自分の名前は書けても、書物を読めるものはいない。
それどころか書物そのものもあまりない。それで、庄屋は村以外で治助のことをしゃべるなと言っておったが、仕方ないので、書物を持っていそうな人に話をして、わしが取りにいくことになっている。
庄屋も、治助にこの世のありとあらゆる書物を読んでもらってこの村をほかの村に負けないようにしたいと考えている。
書物に書いてある知恵を使って、日照りのときも米や野菜が取れるようにしてほしいし、病気を治す薬も作ってほしいと考えているそうじゃ」
では、どうして治助は読み書きができるようになったのでしょうか。
村にある寺の和尚がときおり読み書きを教えていたのですが、病弱だった父親の代わりに4,5歳から野良仕事をしていた治助は寺に行けませんでした。
和尚は、朝から晩まで畑で働く治助を見て、気の毒に思い、治助の家に子供のための書物をもっていったことがあります。
すると、一日ですべて暗記しました。それで、和尚は次々と書物をもっていったのですがすべて覚えてしまいました。
父親も治助の才能を認めて、「知恵を使って村の人の役に立て。わしらが村の人にお礼できるのはそれくらいじゃから」と言って亡くなりました。
治助は、「おとう。必ずそうします」と誓いました。
時々、村の人が困りごとの相談に来るようになりました。治助は、話を聞き、「書物にはこんなふうに書いてある」と答えました。村人はお礼に野菜などを持ってきてくれました。
やがて、近在の村にも治助のことは知れ渡るようになり、相談事をしたいという人が増えました。
本来よその村に行くことは認められないのですが、庄屋は、書物を持ってきてくれたらそれを認めることにしました。
治助が10歳の時、殿様が治助に会いたいので城に来るようにという使いが来ました。
百姓の息子が城に呼ばれるとは前代未聞のことです。治助の村だけでなく、近在の村も大騒ぎになりました。
そして、治助は庄屋に連れられて城に入りました。早速殿様の前に行くと、殿様は興味深そうに治助を見て、「おまえが治助か」と聞きました。
「はい。治助と申します」治助は小さな声で答えました。
「おまえのことはよく聞いておる。小さいながらどんな書物でも読むことができ、なおかつ、その内容をすべて覚えているそうじゃな」
「はい。大体頭に入っております」
「それは稀有な才能じゃ。暫く城いて好きなだけ書物を読むことを許す」
「ありがとうございます」治助は頭を下げました。
治助は一人奥の部屋に連れていかれると、無数の書物が置かれていました。その日の昼から3日間一睡もせず、出された食事も取らず書物を読みつづけました。係りの者が呼びにきたときにはすでに100冊以上の書物を読んでいました。
殿様はもう一度治助を呼び、何冊かの書物の内容を聞きました。治助はすらすらと答えました。
驚いた殿様は、「どうじゃ。今後城に住んですべての書物を読んではどうか。
おまえなら日本一の学者になれる」と勧めました。
「そう言ってくださるのはありがたいことですが、父は生前世話になった村の人の役に立てと言っていたので、村に帰ります」と答えました。
殿様は、治助の気持ちがわかったのでたくさんの書物を待たせました。
しばらくしてから、多くの人が相談事をもって治助の家に来ました。
治助は、「昔の人はこんなふうに言っています」と書物の中にある知恵を話しました。
しかし、人を騙したり、物を盗んだりするために治助に相談するものがいました。
人殺しや放火で捕まったものは治助に聞いたとおりにしたと自白しました。
念のために奉行が治助に聞くと確かにそのように答えたと言うのです。
もちろん悪に加担していませんが、治助の責任も問われました。本来死刑になるところ、奉行は、治助が子供でもあるし、また非凡の才能を持っていることもあるので言葉を伝える舌を抜き、10年の島流しの刑にとどめました。
島では持っていった書物を読む毎日でしたが、治助の才能を聞いている島の人が病気を治すにはどうしたらいいのか聞いたところ、唐から伝わる薬草を教えました。
やがて病気は治り、島の人は次助を大事にするようになりました。
ようやく10年がたち、村に帰ってきました。母親はすでに亡くなっていて、妹が一人で母親の世話をしながら畑を守っていました。
治助は30歳を過ぎていますが、毎日野良仕事をして、雨の日は本を読む静かな生活をしています。
昔のことを覚えている村の人が食べものや着るものをもってきてくれます。
そして、「治助さん。子供たちに読み書きを教えてくれんかの」と頼まれることもあります。
治助はしゃべることができないので最初断りましたが、舌はなくても、目と耳、手、足があることに気づきました。
子供たちが畔に来れば、野良仕事を妹に任せて教えるようになりました。
読み書きだけでなく、自分の目で見て、耳で聞くことがいかに大事なことかを教えています。
今日も、ぴーひょろぴーひょろ。とんびがのんびり空を回っています。

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