死(1)

   

今日も、ムーズがやってきた~きみと漫才を~

「死」(1)
「近所つきあいとは、葬式に行くことと見つけたり」最近、そう思うようになった。
親が入院しているので、長男のぼくが、田舎の実家を守っているのやけど、ものすごい葬式の数や。ぼくらの田舎では、ソーレン(葬列か)とゆうけど、近所の人が、「また出た」と連絡してきてくれる。
亡くなるのは、ぼくの親の世代の人がほとんどやけど、同じ集落(100軒ぐらいか)の人だけでも、去年は、10人ぐらいあったな(それと、おじが二人と、従兄弟が一人)。
今年も、もう2人や。みんな、80才以上やから救われるけど。
こうゆうつきあいはしとかんとあかんのが、田舎や。昔は、「村八分」をされても、葬式と、火事の二つは、助けてくれたようや。それで、「村八分」とゆうらしい。仏になったら許したるとゆうことやろな。
ぼくが、子供のときは、「隣保」(リンポ)とゆう隣組が、「ソーレン」を手伝ってくれた。
今は、葬式屋に頼むことが増えてきたけど、雑用は、「隣保」の人がする。
静かな山里とゆうけど、まるで戦場や。親は、こんな生活しとったんやなとわかった。
「自分は、年を取るし、友だちや知りあいは死んでいくし」やから、気が滅いるはずや。
大昔の「天動説か地動説か」とゆう議論の前には、地球は、平べったいもんで、巨大な亀が、地球を支えているなどと思われていたけど、叔父、従兄弟、近所のおっちゃん、おばちゃんの葬式が続くようになると、ぼくは、地球は、やっぱり平べったいもんやと思うようになった。
人間は、年を取ると、地球の端のほうに行くようになって、どんどん落ちていく・・・。
今は休んでいるけど、朝日新聞の朝刊に、大岡信(まこと)の「折々のうた」ゆうコラムがあるやろ。古今東西の詩、短歌、俳句などを紹介しているのやけど、4,5年前に載った短歌が忘れられへん。それを読んだとき、4,5日、頭から離れへんようになって、仕事がでけんかった。ただし、しばらく、その新聞をもっていたんやけど、どこかへ行ってしもうて、実際の歌をわすれてしもうた。その後、文庫本になった「折々のうた」を、5,6冊買うたけど、わからんかった。情けない。
とにかく、こんな内容やった。「いつも、近所の人の葬式のとき、二言、三言言葉を交わす人がいない。なぜなら、今日は、その人の葬式だから」とゆうのや。
当時は、仕事ばっかりしていたから、仕事を通してしか、社会や人間をみることができなかったので、そうゆう人間の機微や、それを歌にする心情を忘れた生活をしていた。ぼくは、大事なものを忘れていると気づいた。しかし、最近は、人の哀れさやはかなさが感じるどころか、死の大量生産を見る気分や。おっつけ自分の親、そして、自分も、地球から落ちていくやろ。その前に、死について考えてみよう。

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