死(2)
今日も、ムーズがやってきた~きみと漫才~
「死」(2)
ところで、気になることがあるのやけど、最近、ソーレン(葬儀)で、弔辞を読むのは、介護施設の若いスタッフが多くなったけど、あれは、なんでやろ。
本人の友だちは、もうすでに地球から落ちてしもうたか、読むのがしんどいからか。
本人にとっては、一番輝いていたときを知っているもんに読んでもらいたいやろな。
せやけど、老人施設を回っていると、いろいろな家族がある。前からゆうているように、
家族関係は、介護が必要になったからゆうて、変わらへん。
毎日、毎週面会にくる家族(特に息子)があるかと思えば、「ちょっとぐらいのケガやったら、連絡せんといて。何かあっても延命はいらん。死んだ時だけでゆうてきて」とゆう家族もいる。せやから、この4,5年、本人を知っているのは、施設側だけゆうこともあるからか。
人は、後ろから、ブスッと刺されるように、突然死なへん。棺に入るまでには、いろいろなことがある。とりあえず、さびしい生活がある。まず最初に、社会との関係の変化がある。これは、人によって影響度がちがう。
今、団塊の世代の定年が問題になっているけど、定年になると、名刺とゆう武器がなくなるから、「丸腰」で、ふにゃふにゃになる者が多い。
ぼくも、25歳から、事業ばっかりしてたから、名前をゆわれたことなかった。
病院で、名前を呼ばれることに違和感があった。それくらいおごっていたんやな。
東京で、いろいろな異業種交流会に入っていたけど、会議が終わると、「社長だけど」と、自分の会社に電話している経営者が多かった。さすが東京と、わけのわからんことを思うたが、そんなことは、ようゆわんかった。とにかく、名詞や役職で、仕事をするなとゆわれるけど、なかなか俗人にむずかしいな。
そうこうしているうちに、体のあっちゃこっちゃがおかしくなる。
そして、いつの日か、おしめをするようになるわけや。今やったら、老残をさらす前に、死んだるとゆう思いがあるやろ。ヘルパーが、講習なんかで、おしめをして、おしっこをしてみるのは、なかなかでけんらしい。いつか、それを受けいれるときが来るんやろな。それやったら、「おしめプレー」ゆうのがあるらしいから、今のうちにやっておいたほうが、老後が楽しみとちがうやろか。「赤ちゃんパブ」もあるで。水割りが、哺乳瓶で出てくるんやて。これは、やめとくわ。ぼくら段階の世代は、おしめ予備軍やけど、その前に悩んでいることがある。おしっこを、どう気持ちよく、すっきり出すか奥義(おうぎ)を極めようと、みんな努力しているやろ。最初に一気に出す、それとも、最後か。少しかがむか、反(そ)るか。そして、Xデーが来ないことを祈るわけや。「前立腺の手術をしたほうがいいですよ」。深作欣二監督は、男の機能が失われるのやったら、命なんかいらんゆうて断った。貴兄は、どうされますか。三島由紀夫は、50才の自分は許されへんゆうて、45で死んだ。人間は、死ぬまで、いろんなことを決めなあかん。次回も書くわ。