ニュース(2)
今日も、ムーズがやってきた~きみと漫才を~
「ニュース」(2)
ぼくらの親の世代は、戦前、ニュースゆうのは、お上からいただくもんと教えられとった。
せやから、戦後になっても、ニュースは、NHKしか見いへんという大人が多かった。
「NHKは、どうゆうてる」てなもんや。大事な客が来たときは、キリンビールを出さんと失礼やゆうようなもんか(ちがうか。ようするに、昔は、なんでも、あれはこれ、これは、あれと決めていた)。
「大本営発表」の後遺症やろ。都合の悪いことはゆわへん、事実は、歪曲する。「敗走」しても、「転戦」とゆうて、国民は、だまされていたらしいけど。
ぼくらの世代は、プロレスを見るときの「野村證券提供、国際ニュース」から、世界が、現れた。映画を見るときも、ニュース映画ゆうのがあった。
そして、経済が発展してくると、国内外のニュースが氾濫することになった。
久米宏のニュースステーションが、テレビのゴールデンタイムに放映されたのが、象徴的やな。
そして、久米が、世の中の事件に「つっこみ」を入れるようになったから、みんなまねをしだした。ワイドショーやバラエティーも、ニュースをいじるのが定番になった。
ダイマル・ラケットの漫才に、「日本人は、英語を使こうたらあかん」「それやったら、テレビは、どうゆうねん」「全国男女問わず電気紙芝居や」ゆうのがあったけど、ほんまに、「電気紙芝居」になってしもうた。
せやから、新聞読むのが少のうなったから、テレビでも、新聞映して、どんなこと書いているかしゃべっている。もっと知りたい人は、新聞買うてな、てか。
高橋和己とゆう作家は、ぼくらのときの理論的支柱だったが、「火星に、何か起きているかわかったら、ぼくらは、責任をとらなければいけない」とゆうほどまじめだった。それが、今、ほんまに、火星でなにが起きているかわかる時代になった。
せやけど、肝心の地球のことはわからんことが多いままや。
「目は口ほどにものを言い」とゆうやろ。生活の中でも、テレビの中でも、自分が見たことを、ほんまのことやと思てまう。
また、「知らぬが仏」ともゆう。今起きていることを、そんなに細かいことまで知らんでもええやんか。
せやけど、ぼくは、元祖テレビッ子やから、テレビから離れられへん。それで、テレビ大阪(テレビ東京制作)の「いい旅・夢気分」ばっかり見ている。
特に、今は、紅葉がきれいなところばっかりで、気分がええ。料理も、食べたことないようなもんばっかりや。
しかも、久しぶりのタレントとその家族が見られるで(テレビショッピングも、おいしい仕事らしいけど)。そのあと、各地の温泉入浴剤で、温泉めぐりや。
まず、自分が、トピックニュースに出られるような生活をせんと。