不幸の科学
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「不幸の科学」
「前略 立春が過ぎたとはいえ、寒い毎日が続いています。水は止まるのに、鼻水が止まりません。
そうこうしている間に、鼻水だけでなく、涙も出てきます。どうぞご自愛ください」てな手紙が行き来してるやろな。
「はーるよ、来い」と願っていても、来たら来たで地獄や。花粉症や。
目が痒いぐらい、雪下ろしのしんどさと比べたらましやとゆう声もあるやろ。
この前、雪下ろしはなんだか楽しそうやとゆうと、雪国生まれのもんが、「あほか。屋根から落ちたら、骨折ですんだらええけど、窒息するんやで」と、白い雪のことで顔を真っ赤にして怒った。
もう100人以上の人が死んでいるのやて。気の毒なことや。どこに不幸があるかわからん。お釈迦さんがゆうとおりこの世は不幸だらけや。
誰でも、不幸の顔を見るのもいやなはずなのに、わざわざ高い金を出して、不幸なことが起きる芝居を見にゆく(テレビも、このままやと7月で見られなくなるのに、高い金を払うて地デジにして、不幸なニュースを観る)。
確かに、主人公が毎日「今日も幸せやなあ」としかゆわないドラマでは視聴率は取れんやろ。
そうすると、小説や芝居、ドラマは、他人の不幸を喜ぶためにあるのか。
これはひねくれすぎやろな。自分にも起こるかもしれない不幸を、人はどうやって乗りこえていくのかとゆうまじめな動機やとしておこう。
それなら、不幸を科学的に見る訓練をすべきやろ。「不幸の科学」や。
これに似た新興宗教があるけど(最近、そこで金と女の問題が起きているらしいな。そことはちがうけど、ぼくの若村麻由美を手篭めにした新興宗教は許されへん)、大体どこも金集めの仕掛けや。
本題に戻ると、同じ不幸でも、立ちあがれないほどの状態になる人もいるし、なにくそと向っていく人もいる(「不幸かどうかは個人の感想です」ちゅうやつやな)。
電車に乗りおくれたことや、目的地までの信号が全部赤やったことで、「最悪」と思うていたら(多少口癖もあるやろけど)、「不幸認定委員会」が、「これはAクラス」と判定した不幸に見舞われたらどないするんや。
せやけど、それはここでは不問にしよう。その人にとっては、他人があほくさと思うことでも、泣きたくなるほどの不幸になるからな。
まず、不幸は不幸をつれてくるとゆうことや。
タンスの角で足の小指をおもくそ打って泣くほど痛い目におうたら、そこがどんどん腫れてきて、靴が履けなくなってデートができなくなるようなもんや。
また、不幸は幸福にもついてくる。子供が生まれて幸福になったけど、その子供に死が約束されているようなことや(死が不幸かどうかは意見の分かれるところやけど)。
とにかく、不幸は、次から次へと、芋の子のように出てくるけど、一まとめに「かかってこんかい」と啖呵を切っても勝てっこない。分けることやな。そして、一つ一つ料理しよう。
また、今日できたこと、今週できたこと、今月できたことで、自分をほめるんや(布団に入ったら、いつもそうしている。だあれもほめてくれへんからな)。
もちろん、まわりの人間の助けもないとどうにもならん。評論家の吉武輝子は、14才のとき進駐軍にレイプされて、何度も自殺を試みたそうやけど、病院につきそってくれた警察官が、「何があったかしらんが、人間は、何があったかではなく、どう生きたかだよ」と励ましてくれたそうや。人の言葉で生きかえれるのや。
「不幸をお抱えのこととお察し申しあげます。自分の不幸で涙を思いっきり流しましょう。そうすれば、花粉も流れさって、あなたのやることがくっきりと見えてくることと思います。草々」