田中君をさがして(11)

   

それから、2,3日して、パパは、こんな紙を持ってきた。
そして、「これを、おまえの友だちに渡してくれないか」と言った。

武田小学校の諸君!
ゲームを捨てて町へ出よう。
町には、冒険へ行く道がたくさんある。
そして、自分へたどりついた者が、大人になれる。
我と思わん者は集まれ!
日時 9月21日(日曜日午後3時)
場所 元パークサイド病院玄関(深田公園西隣)

「これは?」
「大人になるための儀式さ。今、大人になると書いているが、ほんとは家長としたかったんだ」
「カチョ-?」
「そう、家長なんだ。国も、会社も、そして、家庭も家長が少なくなった。国や会社は、家長とはいわないけれど、とにかく組織をまとめ、何をすべきかを言う人なんだ。
このままじゃ手遅れになる。パパは、どうしたらいいのか一生懸命考えた。これが、答の一つだ」と言う声は、少し震えていた。

なぜこう考えたのか、パパから聞いた話をここで書いてみよう。
パパが子供の頃、お母さん(ぼくにとっては、おばあちゃんだが)が、
病気で、長い間入院していたので、とても淋しくて、今頃、お母さんは、何をしているのだろうかといつも考えていた。
ある冬の朝、起きると、雪が積もっていた。
あんまりうれしかったので、友だちと、近くの野原まで行った。
何もかも雪をかぶった銀世界の中で、何か動くものがいたので、そっと見に行くと、雪がうれしかったのか、小さなウサギが、遊んでいた。
パパたちに気づくと、慌てて逃げようとしたが、木にぶつかったものだから、枝の雪が、どさっと落ちて、埋もれてしまった。
パパたちは、まだ、雪が、次から次へと落ちてきていたが、大笑いしながら、雪の山をくずした。ようやく、ウサギは、出てきて、ふらふらしながら、逃げていった。
パパたちは、いつまでも笑いつづけたそうだが、それから、そのウサギのことが、頭から離れず、寝る頃になって、山の向こうから、汽車の汽笛が、ボォー、ボォーと聞こえると、あのウサギは、今頃、どこにいるのだろうか、だれと寝ているのだろうかと考えると、心が苦しくて仕方がなかった。
そういうことを、いつも考えていたので、昼間、遊ぶ学校や山も、そして、神社も、夜になると、子供が、いや大人でさえ行けない、別の世界になると思ってしまった。
パパのお母さんも、ウサギも、その世界に行ってしまったから、もう会えないのかもしれないと思うと、悲しかった。
だから、弱虫という烙印を押され、からかわれもした。
時々、大好きだった映画を、見にいったが、夜、といっても、7時ごろだったらしいが、映画が終わると、一人のやさしい友だちは、パパが困るだろうと、わざわざ遠回りで、パパを家まで送ると言ってくれた。パパは、とても恥ずかしかったけれど、内心、ほっとした。
その当時、身体が弱かったので、近くの病院へ、よく通った。パパの家から、10分ぐらい歩いたところにあった。高橋医院という名前だった。
木の板が組合わさった塀があり、塀にそって、短くて、細い松の木が、何十本と植えてあったが、外からは、一般の家と見分けがつかなかった。
木の門に、小さな字で、「高橋医院」と書いてあった。昔は、そういう家の病院が多かったらしい。
門をくぐると、少し坂になっていて、正面は、医者の家になっているが、踏み石通りに、右方向へ進むと、病院に行くようになっていた。
ガラス戸の玄関は、がらがらと開くものであった。土間があって、左側に受付があり、前が、畳の待合室だった。冬は、真ん中に火鉢があり、炭が、赤々と燃えていた。そのまわりには、いつも、おとしよりがいて、話をしながら、順番を待っていた。
パパは、おなかが痛くなったり、やけどをしたりすると、いつも、この病院で診(み)てもらった。
そして、お母さんがいなかったから、何もないときも、この病院へ遊びに来た。
高橋先生は、片足が悪い、小さなお爺さんだった。口ひげが、白くて、りっぱだったそうだ。
先生は、戦争のとき、倒れた兵隊さんを助けに行こうとして、撃たれたのよと、看護婦の金田さんは言っていた。
パパの家のことは、みんな知っていたので、その病院で、ばんごはんを食べることも、泊まっていくこともあった。先生は、片足を投げ出して、ごはんを食べていた。
家族は、奥さんと、二人の息子がいたが、一人は、町で、医者をしており、もう一人は、大学に行っていた。だから、いつもは、二人だけだったが、2,3人の看護婦さんが、住み込みでいたので、食事だけでなく、身の回りの世話をしていた。
昔は、住み込みの看護婦さんが多かったらしい。
祭りのときは、看護婦さんと、盆踊りや金魚すくいをして、とても幸せだった。
ところが、あるとき、病院が閉まった。

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