シーラじいさん見聞録

   

シーラじいさんは、その後、鞄と運命を共にするかのように、次々と沈んでいく書類をじっと見ていた。
あの死体が鞄の持主ならば、あれはジムではないかもしれない。
ところで、IPCCとはなんだろうかと頭をひねった。国際的な文書の場合、Iは「インターナショナル」を意味するのが普通だが、そうだろうか。
気候変動についての報告だから、CCはClimate Chageだろう。しかし、Pはわからない。
そもそも、あれは国際的に認められている文書なのかどうかも不明だ。
あの文書には、海洋が熱膨張するぐらい海水温が高くなっていると報告されているが、どうもよくわからない。
もし何十年後、何百年後に大きな気候変動があるというのなら、わしらにとっては瞬きするぐらいの間だが、その兆候があるはずだが。しかも、ニンゲンがあわてている様子もない。
何も変わったことはないところを見ると、小説などのフィクションの原稿なのか、それとも、政治的なデマゴギーなのか。
2,30枚近くあった書類は、全く見えなくなった。
いや、こんなところで、時間をつぶしている暇はない。オリオンを探さなくてはという思いが戻ってきた。
また少し潜りながら泳ぎはじめた。数時間過ぎると日の光がなくなってきた。星で方向を確認しようと、海面に上がった。そのとき、体に強い衝撃が走った。海面が浮き、そのままたたきつけられた。
体勢を戻すとしても、体はごろごろと転がっていった。ようやく体の動きが止まったので、あわててあたりを見わたした。
すると暗闇の中に黒い影が感じられた。その影も何かにぶつかったことがわかったようで、あたりを見ているようだ。
シーラじいさんは、影の形から判断して、オリオンかもしれないと思った。
「おーい、オリオン、わしだ」と大きな声で叫んだ。それから、その影に無我夢中で急いだ。
それに気づいたのか、影もシーラじいさんのほうに近づいてきた。
「これは失敬しました。おけがはありませんでしたか。急いでいて前をよく見ていませんでした」とていねいに謝った。
声から判断してオリオンではなかった。オリオンの仲間のようだったが、もっと年上だ。
「いや大丈夫だ。うっかりしておった」
「少し考えごとをしていたので、まわりをよく見ていませんでした」
「それにしても急いでおったんじゃな」
「仲間が、といっても子供ですが、ボートにくくられているという報告を受けたボスが、ボートを引っぱっていた船に体当たりをして、船をひっくりかえしたという知らせが入ったので、調査に行くところでした」
「えっ、それは、どんな子供じゃな」
「詳しいことはよくわからないのですが、見た者の話では、くくられる前には、船がいくらスピードを出しても、なぜかついていったそうです。
そのうち、船が止まり、二人のニンゲンが降りてきて、その子供をボートにくくりつけてまた走り出したということです」
「オリオンにまちがいない」
「オリオン?」
「その子供の名前だ」
「とにかく、その子供は、だんだん苦しくなったようで体が震えだしたのですが、船は、一向に速度を緩めようとしなかったようです。ボスは、ふつうはそんなときでも何もしないのですが、なぜか急いで駆けつけ攻撃をしたのです」
「なんてことだ」
「海中深くから、猛スピードで走る船の船底を思いっきりもちあげたのです。その場にいた者は、突然船が空高く上がり、ものすごい勢いで海にたたきつけられたと報告しています。そのとき、今まで見たことのないような波が起きたようです。そして、やや遅れて二人のニンゲンが、木の葉のように落ちてきたようです」
「その子供はどうした?」
「それを調査するために急いでいるのです」
「その場所を知りたいのじゃが」
「私らは感覚で見つけるので、どうも説明しにくいのですが。とにかくまっすぐです」
「それじゃわしもすぐに行くとしようか」
「ところで、あなたは、ここらでは見かけない方のようですが、その子供と何か?」
「知りあいじゃ。その船についていくように言ったのはわしだ」
「そうだったんですか」
「ボスが子供を助けてくれていたらいいがのう」
「私らも、ボスについてはあまり知らないんですよ。私らの何百倍ほどの大きさだと聞いています。なんでも、ほとんど世界中を回っていて、ここにはあまり帰ってこないようですが、ただならぬことが起きると、すぐに帰ってきて陣頭指揮を取るということです」
「そうだったのか」
「私は、その子供の仲間で、事件や紛争が起きると調査する役を初めて仰せつかったんです。
先輩からは、『知らないことには責任を持つ必要はないが、いったん知ったことには死ぬまで責任がある』ということを教わりました。
それで、『知る』とはどういうことか考えていて、あなたにぶつかってしまいました」
「それは申しわけなかった」
「それじゃ、私は、調査をしなければならないのでこれで失礼します」と言った。
その言葉には、まだ十分謝りたりないが勘弁してほしいという気持ちがあふれていた。
「ああそうしてくれ。わしも後からいくから」
イルカは泳ぎさった。
「オリオン、オリオン」シーラじいさんは、声に出して名前を呼んだ。

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