シーラじいさん見聞録

   

その頃、水中通話機に、「トム、トム」というジムの切迫した声が聞こえはじめた。
「どうしたんだ?」とトムの声がだんだん近づいてきた。
「オリオンがかなり弱っているようだ。もっとゆっくり走ってくれないか」
「あいつらの先回りをしなければならないのはわかっているだろう?」
「早く目をさませ」という声も聞こえてきた。マイクだ。
「約束したんだ」
「どうしてイルカと約束できるんだ?」
「ジム、こいつがしゃべるところを、おれたちに見せてくれと何回も言ったじゃないか」
「単なる妄想だ。こいつらは、頭がいいと言われているが、それはニンゲンのような知能じゃないんだ。本能をうまく使うことができるだけなんだ」
「食べ物をやれば、芸をおぼえる程度だ」
「このままじゃ死んでしまう」
「ジム、どうしてほしいんだ?」
「オリオンを船に上げてほしい」
「こいつらは何百キロある。しかも、ほっとけば干上がっちまう」
「おまえも、一生楽したいんだろう?」
「じゃ、おれは、オリオンとここにいる。すぐにおれを降ろしてくれ」
ジムの叫ぶ声が聞こえるやいなや、ドスンという音が聞こえた。
その後、全く話し声は聞えなくなった。
わたしたちは、顔を見あわせた。

シーラじいさんは、ニンゲンの死体から離れた。
あいつらが、ジムを殺したのなら、オリオンのことなど眼中になく、すぐに船の速度を上げたにちがいない。
オリオンは、ジムが殺されたことを知らないまま、速度を上げる船についていこうとして無理をしただろう。
自分が弱音を吐くと、ジムに迷惑がかかると思ったはずだ。ああ、オリオン、どんなに苦しかっただろう。
わしは、なんてことをしてしまったんだ。自分の手に負えないことを他人に押しつけてしまったのだ。それも、もう一つよくわからないニンゲンにだ。
役立たずのとしよりが、将来ある若者を傷つけてしまった。
シーラじいさんは、そう思うと、いても立ってもおられなくなった。
オリオンが向かった方を見ても、真っ青な海が広がっているだけだった。ときおり遠くで鳥が飛んでいる以外動くものはなかった。
昼は方向がわかるものがなかったが、じっとしておれなかったので、少し潜って泳ぐことにした。
夕方、星が輝きだすと、方向を確認した。しかし、船がどの方角に向ったかはわからないので、そこを基点に両側を探した。
しかし、夜は月の光があるとはいえ、ほとんど見えなかったので、「オリオン」と叫びつづけた。
しかし、シーラじいさんの声は、暗闇の中に吸いこまれるばかりだった。
ある朝、数百メートル先に何か見えた。ひょっとしてオリオンかと思い急いだ。
しかし、オリオンより小さいものだ。さらに近づくと、以前見たことがあるものだった。鞄だ。ニンゲンが服や書類などを入れるものだ。
わしらは、何千年もの間、つまりニンゲンが文明を作って以来、ニンゲンが落とした鞄を開け中身を調べてきた。
沈んでしまわないうちに調べようと、ファスナーの引手を口でくわえて、引っぱろうとしたが、うまくいかなかった。
国にいたときは、誰かが岩などに鞄を押さえつけ、誰かがファスナーを引っぱれば、簡単に開いたが、今は、1人でやらなくてはいけない上に、硬いものがないので、力が加わらないのだ。
それで、ファスナーの引手を口にくわえたまま、早く泳いで力を入れることにした。
これも、なかなかうまくいかなかったが、ようやく少し開いた。しかし、ゆっくりしておれば、そこから水が入り沈んでしまうので、休まず引っぱった。
半分ほど開いたので、中に顔を突っ込んで、中の物を急いで外に出した。
書類が海に広がった。その中に、写真があった。
自分の家か、瀟洒な建物の前で、4人のニンゲンが写っていた。二人は、40才前後の男と女で、その前には、14,5才の女の子と、10才ぐらいの男の子だった。
きっと家族の写真だろう。
ニンゲンは、必ず家族の写真を鞄に入れている。わしらは、それはとてもうらやましく思ったものだ。
シーラじいさんは、自分の子供のことを思いだした。
長男のアルカディアは、親の言うことを聞かない子供だった。
特にわしの場合は、軍隊を率いていたので、家に帰ることが少なかったので、余計に反発したのだろう。
ツーラとは、いつも長男のことで言いあらそいをしたものだ。アーサーの子供のオーショネッシーが軍隊に志願してきたので、わしも、余計にあせってしまった。
しかし、なぜかマウとアルカディアは、親のわしが嫉妬するぐらい仲がよかった。
ほんとの親子じゃないかと疑ったものだ。うっふっふ。
それが、「パパ、ぼくもパパのように立派な兵隊になるよ」と軍隊に入ってきた。
わしは、ほんとにうれしかった。父親の権威を見せつけられると思ったものじゃ。ツーラは不満じゃったようだが。
ところが入隊して半年も立たないうちに、起きることができなくなり、死んでしまった。やはり軍隊生活は性に合わなかったかもしれん。わしのために志願をしたばっかりに、不幸な人生を送らなければならなかった。
あの時は、マウも悲しんでくれた。
ツーラも、アルカディアも、他の子供も全部死んだ。マウもそうだろう。わしが生きている理由がない。
ところで、この写真にうつっている父親らしき男はジムではない。ジムは、こんな顔じゃなかったし、まだ24才と言っていた。
それじゃ、このカバンの持ち主は、あの死体のニンゲンか。
何か手がかりがないかと思って、海にちらばっている書類を見た。
一枚の紙に、英文で、「IPCC第4次統合報告書」と書かれていた。
シーラじいさんは、それを読みはじめた。
地球温暖化や温室効果ガスなどがキーワードと読みとれた。そして、読みすすむにつれて、幾度となく出てくる地球や人間という言葉は、わしらが住んでいる地球とは違うものであり、人間も、わしらが知っているジムとはちがう生き物なのかと訝った。
なぜなら、この報告書には、今後、気温も海温も高くなり、20~30%の動植物が絶滅する恐れがあると書いてあるが、今見るかぎり海はあくまで青く、何事も変わったことがないからだ。
また、別の書類には、このままでは、わしとオリオンが出あったサンゴ礁にも大きな影響が出るとある。
それを見るかぎり、この報告はわしが今いる地球のことであり、海のことなのか。
そう思いをめぐらしていると、鞄はいつのまにか沈んでいた。

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