シーラじいさん見聞録

   

シーラじいさんは、無我夢中で鰭(ひれ)を動かし泳ぎつづけた。しかし、あせればあせるほど、水圧が壁のようにシーラじいさんに抵抗した。しかも、胸鰭が一つないので、力任せに行くと、体が、まっすぐ上に向かわず下に行ってしまう。
心臓が口から飛びだすようだったが、がむしゃらに力を振りしぼった。
息もたえだえになりながら、何か考えようとした。
自分の国では、軍隊の指揮を取っていたが、こんな危険な敵に遭遇することはなかったし、こんな広大な海では、岩礁におびきよせて、迎えうつということもできない。
しかし、逃げるしか方法はないのか。
わしは、もう長くない。もしあいつらが近くまで追ってきているのであれば、自分がおとりになろう。そうすれば、あいつらは、わしに狙いを定めるはずだ。
オリオンとちがう方向へ行けば、その間に、オリオンを逃げることができる。
そう決めて、振りかえって、オリオンに呼びかけようとしたが、オリオンの影が見えない。しかも、大声が出そうとしたが、声が出ないことに気がついた。
オリオンは、やつらに捕まったかという思いが一瞬心に浮かんだが、すぐに一つの影が近づいてきた。オリオンだ。おーい、オリオン!と叫んだが、まだ声にならなかった。
やきもきする間もなく、その影は、また離れていく。
オリオンは、シーラじいさんの後方を警戒しているのだ。
なんてやつだ。子供のくせに、一人前の兵隊だ。こうなりゃ、逃げるしかない。
シーラじいさんは、オリオンを守るためには、逃げることが一番だと思いなおして、さらにがむしゃらに体を動かした。
あたりは、少し青みがかるようになってきた。魚がのんびり泳いでいた。
どうやら逃げられたようだ。しかし、シーラじいさんとオリオンは、そこを突っきり、「海の終わり」に向った。
ようやく動きを止めた。オリオンは、ジャンプして、あいつらが来ていないかを確認した。そして、あたりを泳ぎつづけた。
日の光がまぶしく、目を開けておられないほどだったが、シーラらじいさんは、息を弾ませながら、その場で休んだ。疲れがどっと押しよせてきた。
ようやく心臓が落ちついてきてから、体の傷を見た。体の右側はかなりえぐられて赤くなっているが、血は止まっているようだ。
シーラじいさんは、「オリオン」と呼んでみた。どうやら声が出たようだ。
オリオンは、シーラじいさんの近くまでやってきた。
「シーラじいさん、疲れは取れましたか?」
オリオンは、4,5時間は「海の終わり」に来れなかったのに、柔和な顔で声をかけた。
「オリオン、おまえのおかげで、また命拾いをした。ほんとにありがとう。苦しかっただろう」
「いえ、大丈夫です。でも、あぶないところでした」オリオンは、柔和な顔で笑った。
「どこかけがをしていないか」そういうと、シーラじいさんは、オリオンのまわりを回った。
尾のつけ根の腹側が、骨が見えるほどひきちぎられていた。
「こんなことになって痛かっただろう。無理をすると、またやつらがやってくるかもしれないから、完全に直るまでどこかで休もう」
「では、安全なところを探しましょう」
「おまえのパパには申し訳ないことをした。男の子にけがをさせて」
「そんなことはありません。パパも、体中に傷がいっぱいあります。
パパは、何も話しませんが、近所のおじさんは、おまえのパパは、若い頃から、弱い者をいじめているやつを許せなかった。それで、よくけんかをしたので、傷だらけになったのだと言っていました。
お兄ちゃんも、パパの傷にあこがれています。お兄ちゃんは、ぼくの傷を見て、きっとうらやましがるだろうと思います」
「そうか。でも、おまえは、パパたちを探さなければならないのだから、あぶなくなったら、すぐに逃げよう」
オリオンは、高揚した気分がまだ残っているらしく、「シーラらじいさんも、その傷は戦った跡だと言っていましたね」
「ああ。これか」と、左の胸鰭があったところを見た。
「わしらの国に侵入してきたオオダコが、戦友を襲おうとしていたので、無我夢中で体当たりしたとき、足で体を押さえつけられて、ここを引きちぎられたのだ」
「シーラじいさんは勇敢だなあ」オリオンは、目を耀かせて言った。
「それは昔のことだ。しかし、おまえのほうが勇敢だ。わしは、おまえぐらいのときは、小隊長をしていたが、臆病で、なるべく敵に会わないように祈っていた。
そのときは、幼なじみがやられそうになっていたので、ぶつかっていっただけだ」          
「大勢で向ってくるなんて、サメは卑怯なことをしますね」
「あいつらも腹をすかせていたんだろうな。そこに、わしのような田舎者がうろうろしているのを感づいて、近づいてきたんだろう。
弱っているのをいただくのは、食物連鎖では当然のことなのだろうな」
「食物連鎖?」
シーラじいさんは、大きいものが、小さいものを食べて、小さいものが、より小さいものを食べていくことについて説明した。
この世に生きているものは、生きていくために、そして、子孫を残すために、そうするように決められているのだといったが、オリオンにはまだ理解できないようだったので、それ以上説明することは止めた。
「もちろん、小さいものには、大きなものから逃げる権利がある。あいつらが必死で追いかけても、わしらも必死で逃げる。さっきそうしたようにな」
オリオンは、何か考えているようで、返事をしなかった。
「そうして、どんなに小さいものでも、必死で生きているものだけが強くなる」
オリオンの目が光った。

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