シーラじいさん見聞録

   

大きなシャチがこちらを見ていた。お兄さんとママと上の弟だった。
お兄さんの顔には表情がなく、ただみんなが見ているほうを向いているというだけのようだった。しかし、以前のように何かから逃げようとする動きは見せなかった。
パパはそちらに近づき、お兄さんに何か話しかけながら、自分の体をお兄さんの体にやさしく押しつけた。お兄さんは何も答えなかったが、気持ちよさそうに命をつぶった。
「おけがはどうですか」リゲルは親子の情愛に気を取られていたが、その声で我に返った。ママが近づいてきていたのだ。
「いや、ぼくが油断したので、こんなことになったのですが、ここにいればすぐに治ると思います」リゲルは快活に答えたが、ママはまだ恐縮していた。
「息子のためにこんなことになって」
「お兄さんはどうですか」
「ここに来たときはどこかに行こうとする素振りをしていましたが、今はじっとしています。
そして、昨日ぐらいから子供たちが動きまわるのをじっと見ています」
「子供に戻って、もう一度訓練を受ければ一から出なおすことができるのかもしれないが、ただ、真ん中まで行けるのか心配だ」パパが口を挟んだ。
「真ん中とはなんですか」リゲルは思わず聞いた。
「安全な場所はどこも同じではないのです。あなたもここに入るのに少し練習しましたが、真ん中に行くほど引っぱる力が強くなり、大人になると、どうしても浮くことができないほど強いのです。
知らない者が紛れこんできても、このあたりまではなんとか来れても、さらに真ん中に向うと、もはや体の自由がきかなくなります。そして、浮きあがれなくなります。
敵が来ると、子供たちは真ん中に逃げるように教えられます。大人が戦って死んでも、子供たちが生きのこれば、われわれの社会はなくなりません」
「お兄さんが真ん中に行くことができたらいいですね」リゲルは答えた。
「そうならうれしいが。あなたもここで体が元通りになることを願います」
パパと下の弟は、ゆっくり養生するように言って、外海に戻った。リゲルはお兄さんたちから少し離れて体を休めた。
しばらくして、少し泳いでみた。体が右に傾くようなことはなくなっている。無理に力を入れなくても、今までのように泳げる。
元にもどったのか、そう思うと、体全体に力があふれてくるのを感じた。生きていくということは、体だけでなく、気持ちの高まりも必要なのだ。
オリオンも、自分の体の障害など気にせず、ぼくらと同じように、いや、ぼくら以上に、勇気があるじゃないか。気持ちの高まりが、体を支えているにちがいない。
お兄さんの体には問題がない。何かが気持ちが高まるのを邪魔しているだけなのだ。
翌日、リゲルはお兄さんたちがいるところに行った。ママと上の弟は、お兄さんがどこかに行かないように両脇にいた。
リゲルは、お兄さんを1人で見ますから少し休んでくださいと言った。
「大丈夫ですか」ママは心配そうに聞いた。
「ここにいれば、体に力が満ちてきて、何かをしたいという気持ちがあふれてきます。
ぜひ、ぼくにお兄さんの世話をさせてください」
ママは、リゲルの申し出を受けた。なるべく早く戻ってきますと言って、その場を離れた。
お兄さんは、親が見えなくなっても、動揺することなく、リゲルのそばにいた。
リゲルも、ときおりお兄さんに声をかけながら、子供たちの訓練を見ていた。
パパは、安全な場所の真ん中に行くほど引っぱる力が強いと言っていた。
だから、子供たちの訓練は、逆に真ん中からはじまり、徐々に外に出ていく。そして、最後には、安全な場所を出て、外海で実践訓練を受ける。
だから、今目の前にいる子供たちは卒業間近なのだろう。20頭近い子供たちに教えている教官の声が響いてきた。
「おれたちは、この世界で敵なしと言われているが、それは体の能力のためだけではなく、助けあう能力があるからである。
もし強いだけなら、相手はおれたちを見るだけで逃げてしまう。それに負けるようでは、おまえたちは、自らを養うことができないだけでなく、家族も養えない。
だから、助けあわなければ、おれたちの命そのものが保てないことを覚えておけ」
はい。真剣そうな子供たちの声が響いた。
「今まではままごとのようなことをしてきた。しかし、今日からは外海での実践に向けた訓練を始める。
単独での漁は、今までの訓練を忘れずに、各自研鑽を積むようにしてほしいが、今日からは、横の挟み撃ち、縦の挟み撃ちの基本を教える。
これは、単に複数で漁をするということではなくて、各自が作戦の要(かなめ)として背積極的に動かなければならない。
1人でも、作戦の意図を把握していない者がいたり、状況の変化にすぐに対応できない者がいたりすると、相手はそこから逃げてしまう。
それは全体への裏切りである。わかったか」
はい。返事はさらに真剣になった。
「今まで優秀な成績の者は特に気をつけること。
慢心が油断に繋がることは、おれたち教官は口をすっぱくして注意をしてきたことだが、それでも毎回優秀な者が作戦を台無しにしてきた。
逆に言えば、成績の悪い者がおれたちの社会を引っぱる指導者になっているというわけだ。
今のことは、外で言わないようにしてほしいが」
子供たちの気負いが緩んだような笑いが起きた。
「さあ、今日は横の挟み撃ちの練習だ。全員二班に分かれろ」別の教官が叫んだ。
リゲルは、「海の中の海」での訓練を思いだした。横を見ると、お兄さんも食い入るように訓練を見ていた。

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