シーラじいさん見聞録
「海の中の海」は恐怖に包まれていた。話し声は全く聞こえず、波が少し立っただけで、びくっとする者がいた。
遠い昔にどこかにある空気穴から迷いこんだまま住みついている鳥の鳴声が遠くで聞こえるだけだった。
避難してきた者はほとんど出ていったが、それにまぎれて出ていった者もいたようだ。
しかし、そのことに気づいても、誰も表立って言わなかった。それで、相手が、いや自分自身が動揺するかもしれないと考えたからだ。
第一門の外で警戒していた者が大きな影を感じた。
ウミヘビの門番だけでなく、サメの門番や見回り人に緊張が走った。
巨大な影はどんどん近づいてきた。合図があればすぐに攻撃できる態勢を取ったとき、「わしだ」という信号が来た。
ボスが来てくれたのだ。緊張は一気に解けた。
影はさらに大きくなった。やがてボスの体が見えるようになった。
門番たちが道を開けると、「ご苦労じゃな」と言葉をかけ、そのまま広場に向った。
ボスが来たことはすぐに知らされたので、広場には大勢駆けつけてきた。
ボスは、噴気孔から大きな潮を1回吐いてから、広場を見まわした。
ボスの前に5人の長老が並んだ。そして、1人が「ボス、わたしたちは大きなまちがいをおこしたようです。心からお詫び申しあげます」と言って頭を下げた。他の長老も続いた。
「おまえたちはまちがっていない。『海の中の海』の使命は、この世の争いをなくすことじゃ。
自分たちのことを顧みず、その巻きぞえになるかもしれない者を助けようとした行為は、今まで『海の中の海』を守ってきた者も賞賛するであろう」
その響きわたる声は、底知れない恐怖心を和らげてくれるようだった。
その長老が、「そう言っていただければありがたいことです。
しかし、誰も見たこともないほど巨大な者がここに姿をあらわす事態になってしまいました」と現状を説明した。
「それも聞いている。わしが不覚を取らなければ、こんなことにならなかった。
必ずわしがやつらを追いだすから、おまえたちは、これからも自分たちの決めたことを進めるがいい」
その場にいた者は勇気とはどういうものかわかったような気がした。
苦難から逃げない姿は孤独なものではなく、他の者との結びつきをさらに固くするものなのだ。
ボスは、われわれを守るために、もう一度海の怪物に挑もうとしている。
「しかしながら、やつらがここに押しことは充分考えられるぞ。
どうして、そんなことをするのか、シーラじいさんに聞いてみるとするか」
ボスは、そう言うと、あたりを見回して、「シーラじいさんはおられるかな」と穏やかな表情に戻って言葉をかけた。
シーラじいさんは、長老の後ろにいたが、ボスの鼻先まで進んだ。
「日夜ご無理をお願いしているそうじゃな。今集っている情報を教えてくださらんか」
シーラじいさんは、ボスに何か言った後、大きな声で話しはじめた。
「城塞の偵察をしてくれている見回り人から、多くの情報が集っている。
それを分析すると、予断を許さない事態になっているが、今後は外に出ないという方針が決まったので、長老と改革委員会以外には報告をしなかった。
つまり、すでにニンゲンとクラーケンとの戦争ははじまっていると言える。
クラーケンの部下たちは、ニンゲンが乗っている潜水艦を一隻攻撃して航行不能にした。
その後も、攻撃を繰りかえしていたので、多分そのまま沈んでいったであろう」
広場はざわついた。ほとんどの者にとっては初めて聞くことだった。
「消息が消えた潜水艦を救助するために、他の潜水艦、船、ヘリコプターなどが城塞の近辺に数多くいる。
もし、もう一度クラーケンの部下が襲うことになれば、単なる故障でなく、攻撃されたのだということがわかり、ニンゲンはニンゲンに対してと同じように攻撃をはじめるだろう。
だから、今ボスがおっしゃったように、ここを開放したことは最良の方針だったと言える。
ところで、ニンゲンが、海の生物と戦争をするなどということは前例のないことである。
そうなれば、ニンゲンは、万物の長という威信をかけて、あらゆる軍事的、科学的方法で、城塞を攻めるはずじゃ。
そうなれば、クラーケンたちは、ニンゲンに向かっていくのか、あるいは逃げるのか、わしにはわからない。
そのようなとき、数は少ないとはいえ、なぜクラーケンの部下が、城塞から離れた場所に姿をあらわしているのか」
みんなは、ぐっと体を乗りだした。
「今まで入りこまれた国を調べると、住民が襲われたという事実は少ない。
国の中を我が物顔で動きまわるだけのようだ。わしの憶測ではあるが、多分クラーケンが城塞を離れようとしているのだろう。体制を整える準備かもしれんな」
そして、さらに大きな声で言った。
「クラーケンの部下が、ここの様子を見ようとしていることを考えれば、ここにクラーケンは来るかもしれない」
シーラじいさんは、事実に基づいた予想を話しおえた。
広場にいた者は不安そうに体を動かした。この恐怖に立ちむかう勇気があるかどうか問われていることを実感したのだ。
ボスは、シーラじいさんに礼を言ったあと、「おまえたちには無理強いはしない。ここを出ようと思う者は遠慮なくそうしたらいい」と言った。
広場にいた者は、最初ボスが何を言ったのかわからなかったのか横にいた者の顔を見た。