
それがあったからこそ
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復活ノート
「それがあったからこそ」
昨日(7月14日)、陸上100mと200mの世界記録をもっているウサイン・ボルトのことを「Nスペ」でやっていました。
彼は、脊柱側湾症という、生まれつき背骨が曲がっている障害をもっているそうです。
しかし、肉体改造をやり、筋肉の鎧(よろい)で障害をカバーしようとしているとのことです。
しかし、スタートのときは、その障害で足がうまく出ないようで(それを気にするので、フライングで失格になったこともあります)、それさえなかったら、100m9秒50を切るのは不可能ではないと期待されています。
しかし、本人は、障害があったので、ここまでやってこられた。これを克服して、自分は伝説の人間になると言っています。
さて、「これがなければ」(あるいは、「これがあれば」)と悔やむのは、世の倣(なら)いです。
逆に、人間としても、経営者としても、世の荒波を乗りこえてきた人は、「これがあったから」、あるいは、「これがあっても、なかっても」、何かをエネルギーにしたのでしょう。
私自身を振りかえると、マスコミや世間に、「若き実業家」などと紋切り型で言われると、「自分ほどの経営者はいない」と有頂天になり、世間や銀行から相手にされないようになると、「世間は冷たい」と泣き言を言ってきました。
ボルトの曲がった背骨を覆う鍛えぬかれた筋肉を見て、今の状態はなるべくしてなったと今さらながらに思いますが、この10年は、自分の夢に向かっているじゃないかと励ます別の自分がいたりして・・・。
それはともかく、出口が見えない不況の中で苦闘する企業はたいへんです。
ビールやウイスキー会社が健康食品やジュースを作り、石油会社が太陽光発電を研究したり、カツラメーカーが毛生え薬を売ったりする世の中です。
つまり、生まれつきの障害ではなくて、後天性の障害を乗りこえるために、「真逆」のことをしているのです。
本業を成長させるために、他のことをするのは昔もありましたが(バブルのとき、ホテルやゴルフ場をして失敗したのは、本業と関係がなかったからです)、今は真剣度がちがいます。
中小企業の経営者で生きのこりを真剣に考えている人は、特に慢心が強い人は、自分の会社がなくなったら、社会はどうなるかを真剣に考えることです(ほんとに真剣にですよ)。
大抵の会社は、なくなっても、社会には何の変化もないでしょう。
それなら、どうするか。本業に未来はあるのだろうか。本業同士で提携はできないか。あるいは、本来本業にとって目障りなものを扱うべきか(上記の例のように)。
考えることは山のようにありますが、その出発点は、自分の会社がなくなった情景を想像することです。
ただ、自分がいなくなったことは考えないようにしてください。それは根が枯れたことを意味します。
今は枯れかかった木をどう生きかえらすかの話です。真剣度に比例して、克服度の確率は高くなると思ってください。
何度も言いますが、自分の会社がなくった情景を思いうかべることほど、自分の中で抵抗があることはありませんから。