復活ノート

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復活ノート

今まで、「復活」、「会社整理」、「経営者」、「経営」、「組織」と続け、「我、かくして、復活コンサルタントを宣言す」を書きました。
今回から、復活コンサルタントとしての活動を書きたいと思います。
私は、評論家然として、発言したくないし、また、そんなことはできません。
私自身が、私なりのビジネス、つまり、「今までなかった事業」をするという夢を持っているのですから。
そして、今まさに、復活をかけた事業をしているのですから。
「復活ノート」と名づけた、このコラムでは、まず、「私がしてきた事業」を書きます。
今まで、各章で、少し書いていましたが、今回は、自分の事業を整理します。
その後は、「私がしている事業」、「私はしないが、面白そうな事業」など、復活を目指す経営者のために、役に立てそうなものを書いていきます。
どうぞ、ご愛読ください。

「私のしてきた事業」(1)

私は、しぶしぶ大学を出た後(といって、余裕のない家に生まれた長男でしたから、働かなければならなかったのですが、当時は、そういう風潮でした)、大阪の広告代理店に勤めました。
しかし、「宮仕え」をしてみると(その年、結婚もしましたが)、一刻も早く、貧乏から抜けでたいと考えるようになりました。
しかし、できることといっても何もありません。
しかし、2年ほど勤めた後、1974年(昭和49年)、当時ブームだった学習塾と家庭教師派遣を始めました。これなら、だれでもできると、ひそかに思ったのです。
自分なりに差別化を考え、「落ちこぼれという言葉に、教育でない。授業についていけない生徒を救う」と、「個別指導」を標榜しましたが、1年立っても、生徒は、思うように集まりませんでした。
当時は、旧文部省が、塾などを、目の敵(かたき)にしている時代でした。職安では、学生アルバイトも、塾へは、紹介しない時代でした。
マスコミも、「塾商売は、教育を、金にしている」と、非難していました。
社会は、大学予備校以外は、社会にとって害であるという認識があったように思います。
さらに、私自身も、自分の事業が耐えがたくなってきました。
「先生」と呼ばれることが辛かったのです。「先生」とは、学校の先生のことであり、塾の「先生」は、まやかしであるという気持ちを捨てさることができませんでした。
それではうまくいきません。そんな状態が、3年も続いたのですから、妻からも、会社勤めを強くすすめられました。
そこで、最後の挑戦として、家庭教師派遣を応用して、ベビーシッター派遣を考えました。
当時は、高度経済成長の時代で、女性の進出が求められていました。しかし、育児や介護は、家族の問題で、社会が介入すべきではないとされていました。
私自身も、長男を、保育園に行かせていましたが、日曜日に、運動会や音楽会があれば、月曜日が代休になるので、妻が、勤めを休まなければなりませんでした。
だから、自分の生活から考えて、これは、当たると言いふらして、笑われました。
そのとおり、3,4ヶ月、利用はありませんでした。しかし、ぼつぼつ問い合わせがくるようになりましたが、「利用したいが、留守に、他人を入れたくない」、「子供に、なにかあったら、どうなるのか」という心配のほうが強かったようです。
それまで、そういうサービスがなかったのですから、当然のことです。
しかし、一度利用すると、「用事もかたづくし、気分も楽だ」という、親の実感が、私の成功を約束してくれたのです。
さらに、経済成長に従い、事業は、拡大していきました。
ベビーシッター以外に、家事や介護も始め、「家庭支援サービス会社」として、大阪を根拠地として、全国に拡大していきました。
そして、バブルが来て、事業は、成長を続けました。世の中が忙しい、つまり、私の事業の売り上げが増える12月の売り上げが、翌年の売り上げの平均になる言う増加ぶりでした。
しかし、バブルが去っていきました。私は、不動産にも、投資にも手を出していませんでしたので、私には、関係ないと思っていましたが、私の顧客は、バブルで、お金をもうけていましたので、半年後には、その影響を受けてしまったのです。