新しいネットビジネス

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復活ノート

「新しいネットビジネス」
昭和39年(1964年)の東京オリオンピックは中学3年生のときでした。
田舎のガキでしたので、日本中がどう興奮していたのかはよく覚えていません。
しかし、家でも、職員室でも、毎日白黒テレビでオリンピック中継を見ていましたから、全国そうだったのでしょう。
学校では重量挙げに人気があって(三宅兄弟の活躍があったので)、毎日のようにやっていました(はじめてスナッチとかジャークという言葉を覚えました)。
今は、サッカー、野球、柔道、体操、陸上などの代表的なスポーツだけでなく、どんなスポーツでも国際大会がありますから、見るほうも慣れています。
当時のように、日本もようやく世界の仲間入りができるという感慨は、政治家にも国民にもありません。
だから、洗練された対応ができるはずですが、逆に緊張を欠いた気持にもなります。それが、今回の競技場の費用やエンブレムにつながっているような気がします。
どの組織も隙間だらけですから、「ここで儲けなければどこで儲けるんだ」という企業なり個人なりにつけこまれたのです(参入していない建設会社は、ある意味当然ですが、「ぼろもうけだ」と批判していました)。
デザインの問題も、「画像検索アプリ」などを使えばすぐにわかります。
もちろん、当のデザイナーも使っていたはずですが、どうして、「自分以外はわからないだろう」と思ったのでしょうか(うまく組み合わせたと思ったのか、あるいは、金と名誉に目が眩んだとしか思えません)。
そして、「ネット民」が騒ぐからというような論調も出てきています。それなら、「下衆(げす)の勘繰り」をおとなしくさせたらいいのにと思いますが、次から次へと妙なものが出てきてしましました。
私は、国家という存在は古臭くなってきていると何回も言っていますが、今回の騒動を見て、さらにそう思うようになりました。
これは、国際社会の存在が強くなってくると、協調つまり「右へならえ」が一般的になって、一つの国だけで新しい問題に対応しなくてもいいようになってきたからです。
それは、国と国が結びつくことですから、軋轢(あつれき)や憎悪が何倍にもなるということです(しかも、それを止める国はなくなります。国連は無理です、どちらかの国がいるだけですから)。
今回のように、それぞれの国の国民、世界市民が声を上げるときです。核兵器の廃棄や、それ以上に切迫している温暖化対策をどうするか。もはや、国はお手上げです。「国民を守る」ためという言い逃れで、自分の座を守ることしか考えていない政治家ばかりだからです。
それなら、それぞれの国民は(世界市民は)、「地球を守って、そしてそこに住みつづける」という共通の課題に取りくむのです。
もちろん、国民をないがしろにする政策や無策に対しても、世界市民は声を上げます。
ネットの新しいビジネスをはじめましょう。