田中君をさがして(16)

      2016/04/05

先生は、自分に都合が悪いときや、気弱になると、攻撃的になる傾向がある。
ところがである。あのキス事件が起きた。
いっしょにいた富田も、ぼくも、何か重大なことを目撃したかのように、それについては、誰にも、一言も言わなかった。
しかし、ある日、ぼくの横にすわっている富田は、「先生は、この頃、やさしくなったように思わないかい?」と、眼鏡越しに、ぼくを見て、ささやいたことがあった。
富田も、ぼくに、どうしても言いたかったのだろう。
「田代君、藤沢君、吉野君、小林君の順番に決めたから」と、パパが言った。
ぼくは、3人の顔を見た。表情はなかったが、ぼくといっしょで、みんな、じゃんけんや抽選より、パパに決めてもらったほうが、心の負担がなくていいと思っている顔だった。。
「じゃあ、田代君から行こうか。決して、無理をせずにね」
田代は、立ち上がって、「行ってきます」と、緊張した声で言った。
残ったぼくらは、そのまま、イスにすわったままだった。
田代は、事務室手前の階段を、ゆっくり階段を登っていった。
こちらを振り向くかと思ったが、休まず、足を進めた。
手すりの向こうに見える田代の体は、だんだん消えていって、足だけが見えた。
それを見ていると、ぼくは、みんなに聞こえるのではないか思えるほど、心臓が、ドキンドキンと鳴った。
ここへ来たのは、ぼくだけ2回目なのにと、自分を叱りたい気持ちになった。
ぼくらは、ここにすわっているだけなのに、世界は、ものすごい力で、動き出しているような気がしてきた。
もう、左の靴裏が消えると、田代は、いなくなった。ぼくは、耳を澄ました。踊り場の次の階段も登ったようだ。
ぼくらの上で、コツコツという音がしたが、あとは、いくら耳を済ましても、何も音がしなかった。
ときおり、事務室のほうから、カタン、カタンという音が聞こえてきていたが、破れた窓から入ってきた風が、ブラインドに当たっているからだろう。そちらを見ると、ブラインドだけが揺れていたから。
ぼくらは、何も言わず、じっとしていた。
パパは、目をつぶっていた。ぼくらは、眼を合わしても、お互い、言うことは何もないからと言いたげだった。
それで、ぼくらは、「出口」がある、奥のほうを見ていた。
ようやく、「薬局」と書かかれている部屋の奥から、何か気配を感じた。何かあらわれたような気がした。
ぼくは、じっと見た。そこは、暗くなっているので、あたりの影が、少しずつ集まって、濃い塊りができつつようだった。そして、人影になった。
まるで、この世には、世界がいくつもあって、どこかちがう世界に紛れてしまった人を迎えたときのように思えた。
「帰ってきた!」と、吉野が、小さな声で叫んだ。
ぼくも、田代の姿を見つめた。
田代は、ぼくらの近くに来ても走らなかった。しかし、深く帽子をかぶっていた。
口元は、少しほほえんでいるように見えた。
「ただいま」
「大丈夫だったか」
「こわくなかったか」
「なんとかな」
ぼくらは、次々に話しかけた。
みんなの顔に表情が戻ってきたようだった。
「田代君、ごくろうさん。次は、藤沢くんだね」と、パパは、冷静に言った。
藤沢は、「はい」と答えたが、その顔は、さっきの表情が消えていた。
藤沢も、ゆっくりと階段を登った。
田代は、帽子を脱いで、目をつぶっていた。きっと、田代は、しゃべりたかっただろうし、ぼくらも、聞きたかったが、なにか、そうさせない空気があった。
仕方がないので、そのままじっとしていた。
しばらくして、「出口」を見るのは、まだ早いかなと考えていると、藤沢が、元の階段を、足早で下りてきた。
そして、「いやあ、ちょっと」と言って、ぼくらの前に立った。足が少しふるえているようだった。
ぼくらは、どう言葉をかけたのかわからなかったこともあって、藤沢を、じっと見ていた。パパは、すぐに立って、藤沢の肩に、両手をかけて、「藤沢君、ごくろうさん」と言って、イスにすわらせた。
そして、「次は、吉野君」と言った。吉野は、ぼくの方を見たが、そのまま立ち上がった。
藤沢は、少し泣きそうな顔をしていたが、あの空気が、そうさせないようだった。
吉野も、同じように、ゆっくり歩いていった。
ぼくは、頭が痛くなってきた。次は、ぼくなのだ。吉野も、途中で戻ってきたら、ちょっとまずいなと思った。
しかし、しばらくすると、吉野は、待合室の奥から、少し小走りで帰ってきた。

吉野がイスにすわって、フーッと大きく息をしたのを見ると、パパは、ぼくに、「最後は、小林君」と言った。
ぼくは、立ち上がった。
ぼくは、2回目だったので、あまり、みっともないことはできないと思った。

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