秋になると、なんでさびしくなるんやろか
今日も、ムーズがやってきた~きみと漫才を~
「秋になると、なんでさびしくなるんやろか」
「秋深き(あるいは、「秋深し」)隣は、何をする人ぞ」とゆう芭蕉の句は、寂しさや、人恋しさの情緒がわかる。ところで、なんで秋になると、隣が気にあるのやろ。
そりゃ、夏は、暑さに耐えるだけで、精一杯や。人のことどころか、自分ことを考えるのも億劫になる。
そして、ようやく、秋風が、ふわっと吹くようになると、体に生気が戻り、心が生きかえる。年取ると、なおさらや。
「気持ちええなあ」と思てると、自分の心が見えてくる。今後の人生、どうしていこうかと考えていると、人間は、一人だとゆうことがわかってくる。
そして、あたりを見渡すと、隣は、何を考えているのやろかと思うようになる。とりあえず、隣は、今日は、カレーライスやなとわかる。
だから、年中、暑いか寒いかの国や、あるいは、広大な土地に、ポツン、ポツンと家が建っているような国では、こんな詩(句)は詠まれへんし、共感を得られへんやろ。
せやけど、子供は、秋より夏がさびしい季節や。
夏休みに、海水浴やキャンプで、初めてのところへ行って、初めての人と仲よくなる。そして、別れる。あれは、しびれるように辛かった。
これ以上にさびしいのは、家に、いとこたちが遊びにくることや。
最初は、「町の子は、真っ白な顔をしているな」と親の後で見ているけど、しばらくして、一緒に、せみやかぶとむしを取りに行くと、夕方には、一緒に風呂に入る。
それから、楽しい日が続くけど、一週間ほどすると、親同士が、いついつ帰るとゆうてる。ぼくも、いとこも、帰る日がわかっているけど、どっちもゆわへん。そして、その日が来る。バス停まで送るときは、ほんまにさびしかった。
日本人は、季節のめぐりとともに暮らしながら、季語に象徴される感性を磨いてきたんたな。
ところが、状況は変わってきた。地球温暖化ゆうことで、日本は、熱帯地方になっていく。だから、一年中がんばるとゆうことができへんので、大橋巨泉のように、カナダとニュージーランドに、みやげもん屋を作って、寒くなれば、反対側へ行って暮らすことができる人は別にして、自分なりに、四季に対する態度を決めておくことはどうやろ。
ぼくは、午前中が、一番頭が動く。だから、秋の午前中が、自分の実力を出すときや。だから、このときに、今後のことを一生懸命考える。そして、冬には、その準備をして、春に動く。また、夏は、秋のために、体力を温存する。
タイガースの金本のように、夏が好きやと思う人は、夏にがんばったらよろしい。
秋風が身に沁みる年になると、心が穏やかでおられへん。せやから、資源がない国が、風力発電をするように、ぼくも、秋風発電をして、自分に、エネルギーを入れんとな。