「二者択一」(多分、2回目)

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「二者択一」(多分、2回目)
3、4年見かけなかった女の人に偶然会った。
以前も挨拶するぐらいやったから、「元気でしたか?」と声をかけたが、離婚したんやて。
本人は高校の教師で、主人は役人やった(と思う)。もうすぐ定年ぐらいの年やから、最近流行の「熟年離婚」ちゅうやつやな。2人とも、穏やかそうやったけど、修羅場があったんやろか。
以前、ムーズで、人生は二者択一やとゆうたことがあるけど、大きな二者択一は、ものすごいエネルギーがいる。奥さんの顔に生気がなかったのは、その後遺症かもしれん(年のせいもあるやろけど)。
どのくらいのエネルギーかとゆうと、ドロボーが、忍びこもうかどうか迷って、その家の庭でうんこをするようなもんや。
それでわからない場合は、本屋で、どっちの本を買うか迷っていると、うんこがしたくなるようなもんや。ものすごう緊張すると、腹の調子がおかしくなるんやな。
とゆうことは、年行くと、体力がなくて、二者択一がしんどくなるゆうことや。
とゆうことは、0か1のデジタル社会は、生きにくいとゆうことや。
そうゆえば、「サブウェイ」ゆうサンドイッチ屋に入ったことがあるけど、「いらっしゃいませ。パンの生地は?中身は?野菜は?マスタードは?」などと立てつづけに聞かれて、泣きそうになったことがある。「なんでもええ」とゆうたったけど、「いつもの!」とゆえる店のありがたみがわかった。
それでは、どっちにしようとゆう二者択一を避けるとどうなるか。
節約と浪費は、全然ちがうようやけど、根は一緒や。どちらも、お金本来の目的である「何を買うか」とゆう二者択一をしなかった結果や(何億とゆう金をタンス貯金していて、ドロボーに殺されるか、大王製紙の元会長のように、100億も博打ですって、すってんてんになるかぐらいのちがいや)。
逆に、表面はいっしょでも、中身が全然ちがうこともある。
近所に、いつもいっしょの夫婦がいる。野良仕事でも、買物でも、いつ見ても二個一や(今日は、2人で、リュック背負って、ハイキングに行った)。
ほんまに仲がええかもわからんけど、腹の中では、主人は、「股に『ばば』挟んだような歩き方しやがってカッコ悪いわ。それに、上も下も、柄のもんを着るな」と怒鳴っているかもしれんし、妻は、「寝たきりになっても、絶対家には連れてかえらへん。死んだら、焼き場に直行や」と企んでいるかもしれん。それなのに、表面は、「今日もお疲れさん」「大丈夫よ、あなた。肩揉みましょうか」と仲がよい(ほんまか)。
ひどいことゆうていると思うやろけど、夫婦の間の二者択一を先延ばしして、最後の最後に何事も起こらんかったらええのにと心配しているだけや。
それより、外で女を作ったり、一人住んでいる姉に密かに金を送っていることなどがばれて、思いっきり喧嘩したほうが、すっきりするで(えらい具体的な例をあげたが、ぼくのことやないで。知りあい、知りあい)。
いやな、最近、主人が死んで、相続の手続きをしたげた人から、愚痴を聞くことがあってな。
細かいことはゆえんけど、主人は、ゴルフばかりで家庭を顧みなかったそうやけど、そもそも、結婚は親の勧めやった。
主人は「種無し」(本人は認めていなかった)で、「もらい子」をした。それも親の勧めやったそうやけど、その子供は先天性精神病で。しかも、主人も認知症になった。
要するに、80になるまで、一度も自分で決めたことがなかった、それで、こんな不幸になったとゆうわけや。
みんな、人生でホームランを打ちたいけど、そうはうまくゆかん。もし三振でも、振って三振なら納得ができるけど、見送り三振は悔いが残るのや。たとえ、ダルビッシュのボールが向かってきてもな。
この前、田舎に帰って、近所のもんと話していたら、「あんたのお父ちゃんは、何でも逃げる人やった」とゆわれた。
この世にいないもんを、しかも、人の親をそこまでゆうかと思ったけど、確かに、何でも嫁(ぼくの母親)にさせといて、うまくゆかんかったら、ぼろくそにゆうていたな。
ぼくも、心当たりがあるので、大勝負に備えて、何を食べるか、どっちの服を買うかぐらいは、自分で決めるわ。
*なお、このテーマに即発されて、どんな選択をされても責任は負いません、念のため。

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