送る言葉

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「送る言葉」
みなさん、卒業おめでとう。
突然ですが、世間はなぜ卒業をおめでとうというのでしょうか。
それは、無事に単位などを取って次に進むことができたようなので、とりあえず「おめでとう」と言っておけば波風が立たないというわけです。
そのまま道が続いている者にとってはそうでしょうが、突然道がなくなった者には、「おめでとう」は心に突きささる言葉です。
ぼくが、大学浪人をしたときもそうでした。道がないというよりも、広い荒野に一人取りのこされたようで、とても不安でした。
京都の予備校に行ったのですが、当時は市電が街中を走っていて、道路の急カーブを曲がるとき、パンタグラフから青い火花がバシッと出るのです。
それが、狐火のように感じられ、孤独感や焦燥感がさらに募ってくるのでした。
あのカンニングをした浪人生も、多分そういう気持ちになっていて、早くこの現実を「卒業」しなければと考えたのでしょう。
こんなことをゆうのはなんですが、たとえ志望校に入れなくても、また学校に行かなかったとしても、何とかなるものです。それが人生というものです(受け入れるまでに多少時間がかかりますが)。
とにかく、自分の頭の出来や容姿には早く慣れます。成績表や鏡がありますからね。もっと言えば、女の子の反応や志望校の合否は有無を言わせないものがあります。
つまり、自分はこういう頭で、こういう顔で生きていかなければならないと観念するものですが(それらが劣っていても、絶対的な不利ではないし、いつまでも劣等感をもっていては損です)、問題は性格です。
今言ったように、頭の出来と容姿は、世の中に出る前に客観性を突きつけられますが、性格はちがいます。
家庭や学校ではみなさんは守られていますから、ほんとの性格を出す機会はほとんどありませんでした。
しかし、社会では、見ず知らずの者同士の性格がぶつかり、それこそパンタグラフのように青い火花が飛びちります。これは家庭や学校で練習できないのです。ぶっつけ本番です。
それに耐えきれずに、せっかく入った学校や会社を辞めてしまい、「引きこもり」をする人がいるのです。
「引きこもり」(やる気がない状態も含めて)になるまでは、自分の性格を相手(人や社会)に合わせようとか、性格を変えようとか努力をしたにちがいません。
これから社会に出るみなさんに言っておきます。そんなことは無理、無理。
そんなことをするから、自己分裂を起こして、「引きこもり」や自暴自棄の生活をして、人生を棒に振るのです。
親や教師、あるいは自分自身に注意されても、性格は変えられないと開きなおってください。
子供には、叱って伸びる子と、ほめて伸びる子がいるなどと言います。それなら、きみは叱られる子か、ほめられる子のどっちかです。
もし、きみがほめられて伸びる子なのに、叱ってばかりいる親や教師に当たっていれば、きみはまだ伸びていない子です。
社会は、きみをほめることはないから、このままでは伸びない子のままです(石川遼や斉藤佑樹が社会でほめられるのは、どちらかで才能を伸ばした指導者がいるからです)。
ピッチャーでいえば、まだ今の投げ方ができていないのに、別の投げ方をしてピッチャー生命を短くするようなものです。
今の性格がきみの武器です。ひねくれでも、ひがみっぽくても、泣き虫でも、へたれでも、それで勝負です。それぞれの性格をきわめましょう。そうすれば、きみは自分で自分を伸ばしたことになります。
春風のようにさわやかな性格の者が必ず幸福になるとはかぎらないのです。
性格は人間関係のなかで反応しますから、誰が見てもいやな性格の者でも自然と変わる場合があります。みんなのためにがんばろうという気になりますから。
もっとも、ぼくのように60をすぎても、友だちがいない者もいますが。友だちがいないまま死ぬのか、一人でもできて死ぬのか興味が尽きません。
人生と「自分への興味」は同義語です。問題のある性格ほど飽きがきません。
とにかく、卒業おめでとう。

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