葬儀アドバイザーサービス
{ }
復活ノート
「葬儀アドバイザーサービス」
以前、「団塊の世代ビジネス」の一環として、宗教を教えるビジネスを提案しました。
今、久しぶりに「団塊の世代」という言葉が、マスコミに登場していますが、「団塊の世代」が定年を迎えるようになり、その退職金をどう集めるかという観点からのみ取りあげられています。
しかし、私たち「団塊の世代」から言えば、60才ぐらいで、自分の人生を「退職」するはあまりに若く、心身とも、十分余力があるような気がします。
つまり、まだまだ人生を開拓する気力にあふれています。しかし、がむしゃらに突きすすむほどの愚かさからは卒業しています。
だから、第一段階を終えた今こそ、経験を土台にして、自分が考えていた人生を開拓するための絶好の機会です。
そこで、これからの人生に骨組みを与えるために、「団塊の世代」向けの「宗教を考える講座」は、どうですかと言いました。
ところが、その前にするべきことがありました。
私のことをいえば、先日3年間入院していた母親を見送り、現在入院している父親のことで、主治医から、何回もお呼びがかかる状況です。
喪主として、葬儀を経験したのですが、葬儀ほど、近所や親戚関係が濃密に出てくるものはありません。
しかも、自分が納得して決めるということができないのです。
露骨なことをいえば、死体は腐るものです。内臓から腐敗が始まります。特に夏は、一刻一刻が勝負です。もちろん、ドライアイスで冷やすのですが、とにかく急がなければというプレッシャーがかかり、言われるままになります。
形式仏教とか葬式仏教とかいわれますが、これは、私たちにも責任があるように思います。「攻撃は、最大の防御」です。
以前、「葬儀屋にすべて任せてしまったら、最初の見積もりの倍かかった」などということがありました。
最近では、「生前予約」と称して、「見込み客」をクロージングする方法が取られているようです。しかし、「顧客」としては、同じ状況に立たされます。
そして、何もわからないまま、菩提寺や地域の決まりに引きずられて、疲れはててしまいます。
「香典」も、葬儀屋と寺に渡すことによって何も残りません。
そこで、遺族の立場で、葬儀屋や寺と話しあうアドバイザーが必要です。
来週、母親の四十九日の法要です。言われるままで、静かに見送ることができなかった葬儀はもうけっこうです。
私が必要としている葬儀アドバイザーが出現するまで、父親には、もう少しがんばってもらいましょう。