スノビズム
今日も、ムーズがやってきた
「スノビズム」
最近、若い者が、自分が知らんことをゆわれたら、「それなんですか、聞いたことありません」て、あっけらかんとしてへんか。
若いもんが、物を知らんのは当たり前や。せやから、大人がしゃべっているのを聞いて、ああそういう意味か、そういう使い方をするのかおぼえて、知識を増やしていくんやけど、
どうも、それが感じられへん。
藤本義一の物真似でゆうたら、「学ぶとは、まねぶから来ていて、ん、ん、ん」やろ。
もちろん、「知ったかぶり」や「見栄っ張り」は、鼻につくけど、なんで、こんなことになったんやろと考えていたらと、スノビズムという言葉が浮かんだ。
スノビズムゆうたら、「俗物根性」ゆう意味やけど、今風にゆうたら、「ダサい」とか「ええかっこし」や。「上流気取りで、粋(いき)やない」と、辞書に書いてある。
ぼくらの若いときは、俗物は、小市民=プチブルで、大人の堕落した姿や思うてた。
だから、社会に出ることは、「自分の負け」やったけど、モラトリアム(さぼりのようなものか)も終わり(?)、社会に出ると、高度経済成長の波に呑まれ、一人前の「小市民」になった。
ところで、学生の頃、「スノブ」(俗物)という、アメリカの短編小説を読んだことがある。
ガールフレンドと本屋に行ったら、うだつのあがらない自分の父親がいた。ガールフレンドに、自分の父親を見せたくないから、外に出た。ただ、それだけの内容やったけど、それを読んで、言葉は知っていたけど、スノブとは、こういうことかと思った。
こんなん、だれでもあるやろ。ぼくも、家が、麦わらの家やったから、幼なじみはええけど、高校の友だちを呼ぶのが、恥ずかしかった(今は、屋根用のわらは、機械で刈られへんから、「葺きかえ」にものすごい費用がかかるから、金持ちの印や)。
そういえば、この前、ラジオで、おもろいことゆうてた。
小学生の子供が、母親に、「お母さんは、クラスで、3番目のブスやなあ」とゆうたので、ものすごうショックを受けたんやて。
「一番ブスや」とゆわれたら、「ひじょうに」の意味に逃げられるけど、「3番目」ゆうたら、クラスで、「ブス順位決定委員会」が開かれた可能性があるな。しかも、この順番は、次の委員会まで変わりまへんゆう権威さえ感じられる。
また、最近、父兄参観に、「お父さんは、絶対に来んといて」とゆわれた父親を知ってる。「お父さんは、ブタで、カッコ悪いから」なんやて。これも、スノビズムやな。
こうやって、まわりの人を、スノビズムの対象にしながら、大人になるんやろな。
若いときは、自分も対象にするから、劣等感を感じたり、自意識過剰になりながら、思春期を、クリアしてきた。
今は、まわりを、ダサいと決めつけるのはええけど、スノビズムの対象に、自分を入れへんから、物を知らんことについて、恥ずかしいと思わへんようになったんやろか。