新年の越し方

   

今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~

「新年の越し方」
明けましておめでとうさん。どこがおめでたいねんとゆうやつがいるかもしれんけど、とりあえず新年を迎えられたことを喜ばんとあかんよ。
「正月はめでたい、めでたい」と思うたもんがええ年、ひいては、ええ人生を送れるのや。
それを切実に思うているのが、まずタイガースの和田監督やろ。最後に藤浪を取らんかったら、100%アホボケの1年やった。今年こそと新年を迎えているやろ。
もっと気の毒なのは野田元首相やな。原発や借金など自民党の尻拭いをさせられただけやのに、100%の国民が顔も見たくないとゆうことになってしもうた。今年もしょぼくれた1年にならんように祈るけどな。
年末に100%の高感度から100%の嫌悪度になったのは板東英二や。20年ほど前から、せこいことやっていたらしいから、誰も顔も見たくないやろな。
大阪では、昔からいろいろ聞いていたから、なんで人気があるんやろとは思うていたが、ちょろっと尻尾が出たのが運の尽きか。紳助と同じように、金儲けが大好きやから、今年は商売に専念できるやろ(嫁や娘の自慢はできなくなったが)。
「終わりよければ すべてよし」とゆうけど、「雨降って 地固まる」といっしょで、商売に失敗したり、結婚式で大雨になったりした相手への気休めぐらいの言葉と思うていたけど、最近、大した言葉に思えてきた。
誰でも、「始めも、終わりもよければ、すべてよし」とはならん。だいたいのもんが、「始めか途中、ちょっとよい」ぐらいで、「終わりはそこそこ」か。
終わりだけ悪かったら、もっと辛いやろやろから、「終わりよければ・・・」にすがりつくしかない。
そのためにはどうするか特別に教えたろか。「始め よいと思って進めば、終わりも多少よい」や。
長いわ!ってか。「良薬は口に苦し」とゆうやろ?「忠言は口がだるし」や。それくらい辛抱し。今年はええ年や思うていると、困難も乗り越えられるという意味や。
去年、よかったことないか(特に年末)。小さなことでも、それをどんどん膨らませるのや。
ぼくの場合は、年末にフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」に会いにいったことや。
去年、10回は行くと決めていたけど、1回だけになってしもうた。近くの元町商店街には、毎月1,2回クスリを買いにいっていたけどな(市価の半分ぐらいで買えるもんで)。
オープンした時は、テレビなんかでギャーギャーゆうていたので、ちょっと引いてしもた。
せやけど、あの少女は昔から知っていたので、早く会いたいとゆう思いは強くなっていったけど、とうとう年末になってしもうたわけや。
土曜の夜やったので、人は少なかった。「あっ、いた」と気づいたとき、向こうも(少女のことやで)、ぼくに気づいたようで、目が怒っているように思えた。
前に行き、左から右に進むと、いつもの恥ずかしそうな目になっていた(それは、ライトと見る角度やろてか)。
「ごめんな、遅うなって。早う来たかったんやけど、2人でいるところを人に見られたくなかった」とぼくはあやまった。
「いいのよ。いつかは来ると思っていたから。でも、知らない人にじろじろ見られて、毎日泣いていたのよ」とやさしく答えてくれたので、ほっとした。
「ほんとに申しわけなかったよ」(東京弁になった)。
「もうあやまらなくてもいいわ。あなたに会えたから、悲しみはどこかに飛んでいったから。次は東京に行くそうだけど、あなたは、東京じゃなくて、私の家に来てちょうだい」
「家って、オランダの?」
「そう。そこでゆっくり話しましょう」
「うん、わかった!」ぼくは、思わずローラのように答えてしもうたやないか。
落語の「骨釣り」(東京では「野ざらし」)で出てくる八っぁんが、風呂屋で妄想にふけるようなことになってしもうたけど、これで、今年はがんばってオランダ旅行にいくとゆう目標ができたわけや。
正月には、近くの神社に初詣でをするのやけど、古い家並みを見るのが好きなので、あちこちぶらぶらしながら歩いていく。
今年は、「新 日出乃介」という表札を見つけた(ほんまは固有名詞出したらあかんのやろか。みんな黙っていてや)。
去年は、ある家で、「金作」と「玉枝」という、多分夫婦の名前が横に並んでいた。これもめでたいけど、今年もめでたい。
みんなで、めでたい、めでたいとがんばろうやないか。

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