旬
今日も、ムーズが降りてきた~きみと漫才を~
「旬」
12月24日に義父が死んでばたばたやった。向こうには息子3人とその女房3人がいて、人もうらや生活をさせてもらってきたのに、義父が3年、4年と入院していても、誰一人見舞いにゆかなかった(まわりのとしよりは、「今はそうやで」とゆうけど、自分のこととなると怒るやろな)。それなのに、葬式では涙を流す。
それを見ていて、社会で生きていくためには、出生届、婚姻届 死亡診断書(埋葬許可書も)があれば事足りるけれど、自分の気持ちの道筋をつけるためには儀式がいるのやと思うた(つまり、笑ろたり泣いたりする儀式や)。
せやから、正月を迎えても、「どこがめでたいねん」などと思わずに、お宮さんにでも行って、三段跳びや高飛びの選手が客に手拍子を求めるように、自分の気持ちを高めることや。
「終りよければ、すべてよし」とゆう。やむをえん場合は仕方がないとして(それがほとんどやけど)、最後の最後で、無理に自分に折りあいをつけるのはつまらん(途中で立ちなおるエネルギーがたいへんやし)。
最初うまくいっていたら、最後にガス欠でふらふらでも、「ゴール!」となるかもしれんしな。
そうゆうわけで、最初から波に乗ったほうがええのやけど、ぼくの場合、「親譲りの天邪鬼で子供の時から損ばかりしている」と、何かのパクリのような人生や。
他人がやっていることはしたくない。他人がやっていないことは、もっとやりたくないとゆう性分でな(性分がひどくなると、他人が見つけたような発見は信じたくない、他人から何も教えられたくないとゆうビョーキが出る)。
学生のとき、何回かボーリングブームが来たけど、一回もせえへんかった。
社会に出て、カラオケに誘われてもゆかんかった(そのくせ、今はどっちも好きや。ボーリングでスカッとして、大きな声で歌うと、明日もがんばろとゆう気になるもんな)。
そうゆうわけで、「今年はうまくいった」となるためには、自分の性分をうまく使うことや。
いらいらすると性分がドンと出る。パソコンを開けると、「ようこそ」と出るやろ?何が「ようこそ」や。わしが買うたんやろ。桂枝雀みたいに、「す、すみませんね~」とゆえとどなる(「す」は、舌を歯と歯の間に置け)。
CDや薬の細いビニールひもが取れんかったら、癇癪を起して踏みつける。夕刊の間から、チラシが落ちてきたら、新聞をクシャクシャにして捨てる。バンテリンの蓋があかんゆうて投げつける。そのくせ、取説は全部読まんと気がすまんほうやけど、あんなん読めん(ケータイを落して、どこか傷つくと、「もう読まんでええ。もう買いかえるから」とホッとする)。
今年は、こんなことをやめる。この前、「らくらくホン」から今風のに変えた。これからは、分からんところだけを読んだり、聞いたりすることにした(聞くのはまだ苦手やけど)。
そして、何でも興味がわいたときに、うまく波に乗ること。そうすれば、自分の性分は抑えられる(どうせ、自分の思うようにならんことに腹を立てるだけのことや)。
何かに遅刻すると、一日いらいらするやろ(全然平気なやつもいる。慣れか性分かしらんけどうらやましい)。
交通事故は、急ぐと視野が狭くなるのが原因らしい。
とにかく、野菜でも魚でも、旬とゆうことがあるけど、自分の気持でも、それがあると思う。それを逃すと、できることが増えへんし、ストレスだけがたまる。
新年に、自分の旬を合わすのがええ。This is it.
それでも、あれもこれもと欲張りはあかんで。2010年は、「二兎追うものは・・・」に似てへんか。とにかくおめでとうさん。